【短編】雨ざらし/雨心中
半壊して屋根の崩れた古社は、木の床は鑢で削られたようにがざがざになり、薄墨の痕が斑に染み付き、白灰色に砂埃をざらつかせている。
しかし雨が降ると、その荒れた木目は潤い、古傷を隠すように薄墨を溶かして、砂埃は流されていく。
長年の雨ざらしによって、腐蝕し荒廃していった古社。それなのに、雨に治癒されていると錯覚している古社は、その身をまた蹂躙されるも承知で、また晒される。
不幸になる事を解っていながら、男の見せかけの優しさに溺れていく女に、それは重なる。
俺はこの古社が憐れでならなかった。
そして、その古社の腐蝕した床に座りこんでいるこの女も、同じく雨ざらしにあっている気がしてならない。
「風邪、ひきますよ」
「ひきませんよ」
「……」
「幽霊が風邪ひきますか?」
その女は痛い笑みを俺に晒した。
「私、今ちょっと死んでるんです。だから心配は無用です」
自分を死んでいるという女が、心配無用な訳がない。
女の虚ろな目が、へらりと笑んだ。
雨粒が女の顔から滴り堕ちる。
女を嘲笑うように、また慰めるように。
生気をほとんど感じない女は、本当にこのまま幽霊になってしまうんじゃないか。
そんな危うさと気味の悪さを俺に感じさせた。
依然、雨に晒され続ける女は、睫毛に雨粒を留めながら呟いた。
「生きるって、残酷だわ」
「……」
「だから、時々ここでしばらく死ぬの」
人生はままならない。
俺だって、辛い現実から逃げ出したい、消えたいと思った事は何度もある。
『俺、今からちょっと死んでくるわ』なんて、仕事に忙殺されにゆく時には、冗談で言った事もある。
しかし女の言葉は、俺のとは全く異質のものだった。
それは何とも言えない静謐な雰囲気を纏っていて、俺のなかに美しく響いた。
「だから私、今は幽霊なの」
まるで、冷たい舌で鼓膜を舐めれたような奇妙な感覚をおぼえて、背筋がぞわりとした。
雨に晒され続ける女の姿は、憐れでもあり、妖艶でもあった。
この世のものではない気も、本当にしてきた。
「いつまで幽霊でいるんだい?」
俺は女に訊ねてしまっていた。
「さぁ……雨がやむまでかしらね」
女は瞼を閉じて雨に身を委ねている。
「君は雨に殺されているのかい?」
雨は偶然なのか、それとも雨だからここに死にに来るのか、俺は知りたかった。
俺の問いかけに女は嬉しそうに微笑み、雨ざらしの床に頬を擦り寄せて目を瞑った。
「心中、かしらね」
「心中?」
「そう。雨心中」
「雨と心中?」
「両方かな」
「両方って?」
「雨に晒されながら、この古社と」
「……なるほど」
この雨ざらしの古社に、自分を重ねては感傷に耽っているのだろうか。
『生きるって、残酷だわ』
女のさきほどの言葉が、俺の心にトゲとなり突き刺さったまま、抜けずにいる。
奥深くまで入り込んでしまったみたいだ。
一体、何があったというのか。
雨に抱かれながら、癒されていると錯覚している彼女が、とてもとても憐れだった。
「俺と心中しないか?」
俺は堪らず呟いてしまっていた。
彼女の形相が変わる。
「生きるって、本当に残酷だよな」
俺は彼女の隣に座った。
床は腐って嫌な柔らかさだ。
じっとりと肌が濡れていく。
仰向きの傘に雨音が静かだ。
「俺もしばらく死んでみたくなったんだ」
そう言って俺は、身も心も雨に晒す。
俺も雨ざらしの人生を送ってきた。
「そう」
彼女は短く応えて、真っ直ぐ前を見つめている。
彼女の横顔に憂いの色と、もうひとつ新たな色を見た気がした。
二人並んで雨に殺される。
俺たちは今、少しだけ雨と心中している。
ー完ー