「雑8」斎藤知事的考察その7
なんとなく違和感の謎が解けてきた。
斎藤知事については、知事以前に人間性についてずっと考えてきた。
彼はまず失敗を知らない人だと思う。
成功しかしていない人、それは一見幸せかのように思える。
が、周りに不幸せをまき散らしていることに気づかない裸の王様
例えば高学歴であること、これって実は、失敗を知らない人間の基礎であること。
すべての高学歴の人はみんなそうだとは言っていないです念のため。
高学歴って、勉強ができるってことだけど、勉強って自分を追い詰める事だけで完結する。
誰かと比べられたって、勉強の成果を出せば試験はやっぱり合格する。
人生を根底から変えられるチャンスがあるかないかの人生はやっぱり受験と勉強だとは思う。自分を追い詰めればいいのだから。
ここで、自分を追い込むことで、必ず成果が出るというストーリーが出来上がり、失敗する自分を認められない、失敗した自分のイメージを作れないという概念が出来上がる。
ただ、社会においては特にトップにおいては違う。
自分を追い込んでも、成果は皆で作るものあり、自分を追い込めば成果が出るというスキームは崩れ去る。
そして失敗した自分のイメージを作れない弊害は、そのまま周りのかかわる人間へもろにでる。
斎藤知事の場合は、彼が自分を追い込んだように周りを追い込むことで自分の鏡としたんじゃないかな?と感じた。
そして、祖父から言われ続けた”お前は知事になれ”という言葉、幼少時代にひたすら言われた言葉は人生の中で溶けない洗脳となる。
親からDVを受けたに等しいかもしれないし、PTSDともいえるかもしれない。
自分は思うに、斎藤知事は、自ら辞職するイメージそのものがわかないのだ。
自分が失敗した経験がないので、自分が辞職するという手段そのものが彼の頭にないのだと思う。
そもそも失敗が怖いという感覚さえないのでは?
これは、本人も周りも悲惨だ。
別に斎藤知事をかばうつもりは全くない、彼は自ら辞職するべきだし、この人の判断が2人の自死を招いたことは事実だ。
彼は病気だと思うし、それに気づけなかった家族も罪つくりだ。
彼を見て思う、自分は若いうちにまだカバーできる失敗をしていてよかったと。
失敗して、人からどん底に突き落とされてはじめてわかることもある。
それに気づいた時に初めて自分が人に対して何をしてきたかにおののき、また新たな人生が始まるのではないか・・。
年齢など関係ない。気づいた時から始まるのだ。
複雑に考えなくても彼の行動を見れば簡単だ。
彼は不信任決議を可決されてから、会見で「職員に対して日々感謝申し上げる」とは言及しなくなった・・・。