この街の片隅で「パワーーー!!!」と叫ぶ。
夏とも秋ともつかない昼下がりのことだった。私は自宅のキッチンでチキンカレーの下拵えをしていた。鶏肉を解凍し、じゃがいもの皮を剥いていると、窓の外から「パワーーー!」と子供の声が聞こえた。子供は何度も叫んでいた。窓から見てみると、ベースボールキャップをかぶってランドセルを背負った小学3年生くらいの、いかにもわんぱくそうな少年が歩いていた。
私も「パワーーーー!!」と叫んでみようと思ったが、じゃがいもの皮を剥いているうちに少年はもう行ってしまった。なぜ私は「パワーーーー!!」と叫ばなかったのか。
私が「パワーーーー!!」と返すことでその少年とある種の絆を結んでしまうことを面倒に思ったのか、あるいは「パワーーーー!!」と叫んだ声の主がその少年ではなかった場合、私が出し抜けに「パワーーーー!!」と叫んで少年を驚かせるだけの妖怪になってしまうのではないか。はたまたこの家の前で「パワーーーー!!」と叫ぶと「パワーーーー!!」とやまびこが返ってくると言う噂が町内に広まるのを恐れたためか、それとも私は「パワーーー!」と叫んだ少年に対して「パワーーーー!!!」と返すこともままならない、つまらない大人になってしまっていたのか。
そう、私はいつの間にかつまらない大人になっていた。
つまらない大人がいるということは、おもしろい大人がいるということだ。私はつまらない大人よりはおもしろい大人でありたいと思うが、少年にとっておもしろい大人とはどんな大人を指すのだろう。
「パワーーー!」と叫ぶ少年に「パワーーーー!!」と返す大人はおもしろい大人なのだろうか。
結論から言えば「パワーーーー!!」と叫ぶ大人はおもしろい。おもしろいに決まっている。確かにおもしろいかもしれないが、大の大人が「パワーーーー!!」と叫ぶにはそれなりの勇気と元気を要する。と言うことは、勇気と元気のある大人がおもしろい(あるいはその可能性を秘めている)のであり、勇気と元気の無い大人がおもしろくない(あるいはその可能性が乏しい)のではないか。
私はいつの間に勇気と元気を失ったのだろうか。
古代インドの聖典「バガヴァット・ギーター」でクリシュナがアルジュナに放った言葉が私の脳裏をよぎる。
“行動せよ。そして行動の結果を動機としてはならない”。
私は行動の結果を恐れ、叫ぶことをやめてしまった。私はただ叫べばよかったのだ。それ自体が動機なのであって、結果の中に動機は存在しない。行動が結果を生むのであり、結果が行動を生むことは無いのである。卵が鶏を産むことがないように。
チキンカレーを作り終えた。今、私は行動する。窓を開けて大きく息を吸い込む。吸い込んだ空気はもう秋の香りが漂い始めている。街の空は昼とも夕ともつかない薄紅色で、その虚空を一匹のカラスが飛んでいる。私は叫ぶ。この街の何処かにいるはずのあの少年へ届くほどに大きく。
この街の片隅で「パワーーーー!!」と叫ぶ。