殺された100匹の蟻と生かされた10匹の蟻
まだ夏の気配を残す強い光が窓から差し込んでいた朝、小さな蟻がキッチンに100匹ほど侵入した。その群れは床の隅に落ちていたお菓子の欠片を目指していた。この数だと追い払うのも難しいし、放っておくと他の食料に被害が及ぶし、子供達が噛まれてしまう可能性もある。
為すべきことを成せ。そしてそれを行う時、それについて考えてはならない。私はうろ覚えの般若心経を唱えながら殺虫スプレーを撒き、その場に倒れる蟻も逃げ惑う蟻もクイックルワイパーの取り替えシートで丁寧に拭き取ってゴミ箱に捨てた。
私はその日、100匹の蟻を殺した。
一方、我が家は観察用の蟻を飼っている。子供が女王アリを飼いたいと言うことで、妻がどこからともなく女王アリを捕まえてきて惣菜用にプラスチックの容器に入れたのだ。それが卵を産み、現在10匹ほどの家族に成長している。飼育と観察は子供の手から離れ、例の如く妻が引き継いでいる。観察しやすいように巣が断面図のように見える装置も購入し、餌も水分も与えられ環境は整っている。
私の手によって殺された100匹の蟻と妻の手によって生かされている10匹の蟻の差は何なのだろう。私に蟻を殺さない選択肢はなかったのだろうか。さすがにまとめて飼うわけにもいかない。私に出会ったせいで100匹の蟻は死んでしまい、妻に出会ったおかげで10匹の蟻は生きているのだろうか。
古事記でイザナミが一日に人を千人殺し、イザナギが千五百人を産むと宣言する。これは人の生と死の原理についての説話だが、イザナミが人を殺すように私は蟻を殺すというカルマに従っただけなのだろうか。
我々はカルマから逃れることはできない。生きるからには何らかの行動を伴い、生きるということは他の命の犠牲の上に成り立っている。動物も植物も同じだ。
其々が各々のカルマを背負い、行動した結果、私が蟻を殺すと言う現象に至ったのだ。私と蟻の属性は重要では無い。良いでも無く、悪いでも無い。私と蟻が背負ったカルマが交錯した結果である。イザナミは千人を殺し、私は100匹を殺した。イザナギは千五百人を産み、妻は10匹を生かした。
起こったことは変えられない。私とかわいそうな蟻が出会ってしまったように。しかし、起こったことに対していかに向き合うかを我々は選ぶことができる。カルマを受容するのか、それとも拒絶するのか。
私は結跏趺坐し、姿勢を調えた。呼吸に意識を集中し、心の働きを観察した。そして深い瞑想に入ると瞬きの間にヴィジョンが見えた。殺された100匹の蟻の悲鳴と生かされた10匹の蟻の鼓動を聞いた。生かされた10匹の蟻は100匹の群れとなり、行列を成して私の亡骸の上を這っていた。集中が解かれた時、私の頬には涙が伝っていた。私はカルマを受容するほどの決意も無く、拒絶するほどの覚悟も無かったのだ。
このように、どっちつかずの未解決な問題に引き裂かれながら生きていくことも私のカルマなのかもしれない。