米津玄師とさだまさしの共通点

結論から言うとほぼ無い、と思います。

とはいえ強引にひねり出すと、米津玄師さんの「Lemon」が大ブレイクした時に、一部の Old ages の方々から「檸檬と言えばさだまさしだろ」という声が結構多かった印象があります。

https://twitter.com/search?q=Lemon%20%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97&src=typed_query

40年の年月を経て、同じ「れもん」という音を持つタイトルソングがヒットしたということで、郷愁を呼び起こされた人も多かったのだろうと思います。

そして調べてみると、さだまさしさんと米津玄師さんは意外と「同名」の歌が多いということに気づきました。ということで今回は共通のタイトルを持つ両氏の歌を取り上げていきます。

Lemon / 檸檬

まずは言わずと知れたこちら。有名すぎる曲なので説明は割愛。僕も何度も好んで聴きました。

さだまさしさんの楽曲はこちら。1978年の楽曲。

弦楽器のスル・ポンティチェロが印象的なイントロで始まる曲。
聖橋を舞台に、檸檬を小道具に、男女の青春群像、特に、若者特有の諦めの良さというか、潔さ、思い切り、もしくは名状しがたい衝動、と言ったものが印象的な形で描かれた歌だと思います。

食べかけの檸檬 聖橋から放る
快速電車の赤い色がそれとすれ違う

この歌の制作秘話について、佐野元春が司会していた「ザ・ソングライターズ」という番組で紹介されていたのが印象的だったので、以下に引用をします。

下敷きに梶井基次郎の『檸檬』という短編があるのはお気付きだと思います。青春時代にこの人の短編小説にものすごく影響を受けてね。この人の小説を読んでいると僕には絶対書けないと思うのね。それはなぜかと言うと、自分の命を見切っている人の視線なのね。覚悟が有って、諦めが有って、でも捨ててない。
(中略)
春先の歌なんだな、これ。なぜ春先の歌かといと、非常に登場人物の気持ちがせわしないんだね。春先のせわしなさなんですよ。何も安定していない不安ばかりの中でね。
(中略)
快速電車、まあ今は塗装するのもお金がかかからラインが一本引いているだけだけど、昔はきれいに塗り分けられてね。正確にいうと檸檬色じゃないし赤い色じゃないんだけど。
投げ落とす檸檬、まあ僕は一度も聖橋から檸檬を投げたことはないけど、気持ちの中で何度も投げてみた。そうすると、ここで走ってほしい電車の色って青じゃないんだな。レモンイエローと赤が走ってほしい。
(中略)
歌で僕がとっても大事だなと思うのは匂いなの。匂いだけはすごい人間というのは敏感なのね。あの時にこんな匂いがした、というのは、みんなつぶさに自分の経験を振り返ってみると覚えているはずなの。たとえば家に帰った時のぱーんと押し入れを開けた時の匂いって言った時にね、それぞれみんななんかこう匂うのよ。
(後略)

「捨て去る」という言葉に込めた意味や情景、心情もさることながら、それを印象的に伝えるために映像や色、匂いまで意識して作り込まれた歌詞である、ということが本人の言から伝わってきます。

米津玄師さんの「Lemon」でも、レモンの「匂い」に投影する形で心情を印象的に表現しています。そういう風に、レモンという果物はある種の感情を誘導し伝えるための装置のような感じもします。


僕は、さだまさしさんの「檸檬」発売当時には生まれてないのでこの曲がどの程度多くの人に受け入れられたのかよく知らないのですが、古くからのさだまさしファンの方々はこの「檸檬」を好きな方がとても多い印象があります。それは、さだまさしさんと同じような時代を生きてきた青春の匂いを、聴き手も感じ取っているからかもしれません。

春雷 / 春雷

シンセのエレクトリックサウンドと、過剰に聴こえるくらいビブラートを加えられたボーカルが印象的な曲です。恋の終わりの衝撃を春の雷に例えた歌、という感じでしょうか。

余計な話ですが、個人的には最近の新曲「感電」の方が、よりサウンド的にはわかりやすく春雷っぽいなと思ったりもします。

一方、さだまさしさんの「春雷」はこちら。1984年に作られた楽曲。

世間一般の「さだまさし」への印象とは真逆の、激しいビートが鳴り響くロックサウンドになっています。
特に、一般的なミュージシャンのサウンドではまず耳にしない「マリンバ」の響きが印象的です。打楽器でありメロディ楽器であるマリンバが、エレキギターやドラムなどとシンクロして、雷雲の轟く様をサウンドで表現しているように思います。

マリンバを演奏しているのは、日本を代表するマリンバ奏者である宅間久善さん。5歳から「天才マリンバ少年」としてテレビ番組に出演し、武蔵野音大時代にさだまさしさんと運命の出会いを果たし(さださんを招いた文化祭の実行委員が宅間さんだったらしい)、大学首席卒業後30年に渡りさだまさしサウンドを支え続けてきた方です。

宅間さんが参加されていたころのさだまさしさんのライブ映像を観ると、マリンバがリズムにもメロディにも替えがたい印象的なアクセントを加えています。少なくとも、当時の他のミュージシャンのサウンドからは流れてこない唯一無二のサウンドが、ここには存在していました。

いつの時代も、どこにも無い音、自分だけの音を模索する創造主の営みがあり、その試行錯誤が40年近い年月を隔てて、同じタイトルの曲でせめぎ合っている、というのが個人的にはとても興味深く感じました。

ひまわり / ひまわり

他の2曲に比べると、「ひまわり」は歌にもよく用いられる一般的な言葉なのでそこまで意外性は無いかも知れません。

米津玄師さんが、激しいエレキギターのサウンドをフィーチャーしながら、ひまわりを「希望」的ななにかと仮託して作られているのに対し、
さだまさしさんの「ひまわり」は、強く生きる女性の姿の象徴として歌われています(上のYouTubeでは、実妹の佐田玲子さんが歌われています)。

こうして両者の同名の作品を比較して聴き比べてみると、同じタイトルを冠した歌であっても、その作家性や、その時代の空気感により、様々な表現があるのだな、と小並感な感想を抱きます。


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