いまこそさだまさしの「療養所」を聴いてほしい
Twitterの書き込みで、「治る見込みのない高齢者を病床に縛り付けているなら、(彼らを救わず排除して)病床を空けて、コロナ対策に回せば良い」というような発言を見かけました。個人を特定しないように表現はかなり変えてます。
高齢者医療に関しては様々な問題が山積しているのは事実と思いますが、長期入院を強いられている方々を「無駄」扱いする、そんなふうに捉えられる言い方を敢えてすることも無いと思います。
高齢者を切り捨てて、病床が空いた結果、コロナの重傷者受け入れ余地が増えるとして、その結果得たいものがなにか、というのも大事です。ただ健康な人が好き勝手飲みに行ったり遊びに行ったりしたい、というだけの話なのであれば、これもまた残念な感じがします。
そもそも、高齢者が長期入院する病床と、いわゆる「コロナ重症者」を扱うための病床は必要な設備が異なり、高齢者を排除したからといってコロナ禍で健常者が得する気もしません。
個人的な話になるのですが、私の父親は、10年近く前に脳卒中で倒れ、その影響で重度の高次脳機能障害を抱え、今では会話で意思疎通をする事はできず、自力で歩行したり起き上がる事もできません。車椅子に乗ることはできるため幸い寝たきりではなく、様々な人の介助を頂きながら命を紡いでいます。
物言わぬ人になった人間、自力で生活ができない人間を、「無駄」だからと排除する、命を軽視する、そういう事を言う人が少なからず居るのは把握しています。相模原の事件を起こした植松聖もその一人でしょう。そういう人にとっては、私の父も、価値の無い無駄な存在の中に入るのでしょう。
そういう人に対抗するための明確な深い洞察や意見が自分にはあるわけではないのですが、拭いきれぬ強い抵抗感は、自分の親に対しても、他の同様な境遇の方々に対してもあります。
誰しも、好きで老いるわけでもなく、好んで病院に入院しているわけでもありません。自ら進んで障害や病気を抱え、人生を静かに終えていくのを選んでいるわけではありません。そして、誰しもいずれは等しく同じような境遇に置かれることになるのかもしれません。
その事に対して、もう少し優しさや慈悲の目を向けてあげることはできないのだろうか、と思います。
療養所(サナトリウム)
療養所と書いて「サナトリウム」と読ませます。
1979年に発売されたアルバム「夢供養」の中の一曲です。
入院をしている青年が、同室となった病床に置かれたおばあさんの姿を思い歌った歌です。
どのような綺麗事を並べても、人は老い、いずれ死ぬという事実は覆りません。ある意味絶望かもしれないし、諦めるしか無いことかもしれません。その現実に直面した時に、人はどのように受け入れ、接することができるか。
そのような事を 考えさせられる歌です。
私はこの歌を小学生のときに初めて聴いたのですが、頭をハンマーで殴られるかのような衝撃を受けた記憶があります。以下の歌詞に。
歳と共に誰もが子供に帰ってゆくと
人は云うけれどそれは多分嘘だ
思い通りにとべない心と動かぬ手足
抱きしめて燃え残る夢達
「歳を取るとワガママになる」「子供に戻る」という言説を周りの多くの大人から聴いていて、違和感がありつつも、でも皆が言っているからそんなものなのかなとその頃は疑う事なく信じてました。
でも、この歌詞を聞かされて、その通俗観念を崩されました。やはりそんな事は無いと。誰しも望んで衰えるわけではないし、死を迎えるわけでもない。でも抗うこともできず諦めなければいけない現実もある。そういう人達のことを「子供」だと切り捨てて良いわけがない。
そんな当たり前な事を、この歌を通じて気付かされました。
さだまさしさんの人生観と「療養所」
さだまさしさんはこの作品を発表されたのが27歳の時。20代でなぜこんな人生を達観した老成した曲を書けたのだろう、とも思います。
さださんは学生時代の無理が祟り肝炎を患い、それが理由で大学も退学し、グレープの活動中も過労のためか再発したため解散、さださん自身も長期療養を強いられたという経験があるようです。その時に感じた事や見聞きした風景が、この「療養所」の歌の世界観を作り出しているのかもしれません。
この歌を通じて強く感じるのは、さださんの「命」に対する冷静な見切りと諦め、そして温かい視線です。
この歌は、1番から2番にかけて、終始冷静で達観した、ある意味突き放した目で物語が語られていきます。
療養所にいる身寄りのないおばあさんの姿、飲んだクスリの数さえ忘れてしまう衰えた姿、日々たわいもない噂話くらいしか話題のない色と音の無い病院の風景。
そして、どのような綺麗事を並べようと、彼女らは遠からず命を失っていく、という諦めるしか無い現実。
その事に対して、目をそらさず直視し、かつ綺麗事や美辞麗句、世間的な通俗的な言説を用いず、ただ淡々と、この歌では語られていきます。
まぎれもなく人生 そのものが病室で
僕より先にきっと彼女は出ていく
幸せ 不幸せ それは別にしても
真実は冷ややかに過ぎてゆく
万物はいずれ移ろいゆく、というある意味「無常観」といえる人生観は、さださんの多くの作品から伝わってきます。「防人の歌」や「まほろば」「晩鐘」など。
その冷静な、命に見切りをつけた視点で語られるからこそ、この歌は命の大事さ、重さ、そして儚さというものを強く印象づける作品になっていると思います。
そして同時に、「療養所」では、さださんの温かい眼差しというものも強く感じます。
この歌には、最後に一筋の救いがあります。
それが何なのか、については、実際に聴いてみて感じてほしいなと思います。
個人的には、その人の生きがいというものは、自分自身が感じるものでありますが、周りの人の温かい心や、関心、ちょっとした優しさというものが形作っていくものではないか、とこの歌を聞いて感じます。
あなたの周りの大事な人を幸せにすることができるのは、そばにいるあなたの役割ですよ。あなたのささやかな気遣いや優しさをためらわない事で、周りの人の人生にそっと彩りを加える事ができるのですよ。
そんな事を、感じさせる歌だなと、私は思います。
私が思うこと
今は、鬱屈した空気感の中、みなが不自由さを感じ、ストレスを抱えながら生きている時代だと思います。
多くの人が慎ましく我慢して生きている中、自分の心に負けて自分から遠い存在の人たちに対して偏見や罵詈雑言を浴びせる、そんな人をSNS上でも、実際の世の中でも目にすることがあり、そのことがまた心を荒ませます。
辛い現実は確かにあります。
でも、他人を慮り、他人に対するちょっとした優しさや思いやりを持つことで、僕たち自身ももっと生きる意味を感じられるのでは、そんな風に思います。
さだまさしさんの「療養所」という悲しくも優しい歌が、そんなことを考えるきっかけになるのであれば、さだまさしファンの私としても幸いです。