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他人に伝える二次創作
私は趣味で絵だの小説だのを書いているが、バラすときは必ず「絵も字も嗜むタイプのオタクです」と言うようにしている。というのは、うっかり「イラストが好きで描いてて〜」とか「小説を書くのが趣味なんですぅ」などと申し上げてしまうと、せっかちな人はすぐに「じゃあ将来はイラストレーター(or小説家)だね!」とか言い出すからだ。そもそも私は自分の将来に関して無職かフリーター以外思い描けない。
しかしまあ、オタクとしての創作以外したことがないというのは本当である。私が一向に紙から出てこない漫画「信長協奏曲」の榊原康政氏に恋をし、ついで康政氏と忠勝氏のカップリング、所謂康忠に落ちてより今年の四月で二年が経過しようとしているが、その年月をかけて私がしたことと言えば、
「(康忠の)絵を描く」
「(康忠の)漫画を描く」
「(康忠に関する)研究レポートをA4用紙7枚分書く」
「(康忠の)小説を書く」からの「その小説を本にする」
など、康忠の猥談折本を作ったとかプレゼン資料を作ったとかこまごましたことを除いても割と多岐に渡る。しかし人に己の活動を伝える際は大抵この(康忠の)という部分をすっ飛ばしてしまうため、なんか一見めちゃくちゃクリエイティブな人間に見えてしまうのである。これは困りものだ。私は康忠というカプがなければ恐らく短編一本完成させることのできぬたちの凡人であり、自カプのセックスが見たいからこの手で生み出しているに過ぎぬ。ゆえに自カプがないのにちゃんとオリジナルの漫画だの小説だのを書けている、根っからのクリエイティブ・パーソンと比べないでほしい。いや、ならばまずは私の行う二次創作そのものについて衆知せしめる努力をすればいい、と思われるかもしれないが、ことはそう簡単ではない。確かに、文章にしてみれば「漫画に出てくるキャラクターと漫画の世界観を用いて原作にはない二次的創作をする」ということなのであるが、そもそも漫画の特定のキャラクターに二年も傾倒していること自体が常人からすれば異常なのであって、その時点で康政氏の他に十三年来の推しキャラがいる私などは口をつぐむしかなくなるし、まして原作で既に描かれているはずのそのキャラクターに関するエピソードを追加で創作する、などというのはシンプルに異常行動である。もちろんここには「(世界一崇高な)異常行動」という言外の意が含められている。それにしてもこの異常行動、世界一崇高であるのとないのとに拘わらず、思う以上に人に伝えることは難しい。ここに書いた程度のことでさえ、時と場を変えそれぞれざっと五、六人程度のオタクでない中年に言ってみたところ誰も理解しえなかったし、ほぼ全員宇宙猫の顔になっていた。しかも私はまだ「なぜか康政氏と忠勝氏の結婚式が原作から落丁しているので、すべての創作はその行間を埋める作業である」という肝心の部分を言っていないのである。もし彼らにこれを伝えていたらばどんな反応をしたろうか。恒星爆発からのブラックホールの誕生くらいはあったかもしれない。
ともあれ、肝要なる部分を伝えられないせいで、私はやたらめったらクリエイティブに絵を描き小説同人誌を出し、教養のために古今和歌集を買う野郎みたいになっているが、私が古今和歌集を買ったのはひとえに康忠の恋愛感情を情緒的に理解するためである。ところがそれを上手く説明できぬ(してもいいが異常者と思われる)ために私はしばしば「創作と勉強が好きでたまらないヤベェ変わり者」との誤解を受け、ちょっとOSK(おせっかい)な人には「将来どんな仕事に就くの?」などと期待に満ちた眼(まなこ)で見られてしまう。私の将来の夢は無職である。
それを思えば、俺たちのツイッターさんには俺たちのような異常者がことごとく集まっているがために「自カプのセックスのために同人誌を出す」で全てが伝わるが、これはまあまあ凄いことなのではないか。上述のごとき手間も一切掛からぬ上、「自カプのセックスか! その意気やよし!」と言われるワールドが叶ってしまっている。無論その中でも「同人誌を見たこともないしイベントもないし通販の予定もないが自カプのR18リバ小説(文庫175ページ)を二冊だけ刷ったぜ」という、若干意味のわからない私がごとき例はやや珍しいかもしれないが、その珍しさもオタクの教科書の端っこに「こんな例もあるよ」みたいな感じで二、三個並べられるくらいの感じで済むし、おそらくはどこかしらに前例がある。そもそもツイッターには三角関数で推しを理解しようとする者もいる。
とはいえ私はどの社会に行っても必ずちょっとはみ出すタイプの応用型社会不適合者なため、ツイッターが肌に合っているかと言われたら別に合ってはいないのだが、相対的に異常者濃度が下がって見えるという点ではそこそこ居心地がいい。まあ現実世界で異常者と思われるのもそれはそれで楽しいのだが、諸々をいちいち説明せねばならぬとは手間だ。それも、私の説明・説明・説明、からのお互いにディスカッション、というふうに発展すればまだいいが、私の場合は言っていることが自カプのせいで戦国時代とか古今和歌集方向なので、どうしても高校の研究発表的にこちらが一方的に弾丸トークをしては相手が「ほぇ〜」となって終わる。そして私のプレゼン能力だけがやたら上がっていく。もはや「オタク」が免罪符にならない程度の迷惑行為なので最近は相手を選んでやっているが、ツイッターだとこれがだいたい「オタク」で済まされるのだ。さすが俺たちのツイッターさん。最近はインスタに憧れてよく分からん改革を試みてはオタクを振り落とそうとしてらっしゃるが、それでも多分俺たちは死ぬまでツイッターに縋るんだと思う。