25メートル田んぼ : 日記
25メートル田んぼ
田んぼをカモが泳いでたんだけど、ずらっと植えられた苗のあいだの
↑このルートを律儀に通っていて面白かった。市民プールみたいで。
接写
なんか疲れてたので、めっちゃ近い電柱の写真撮ってた。
なんかの断面みたい。
初カキコ…ども選手権
以前オモコロの記事でやっていた「初カキコ…ども選手権」が好きでたまに自分でもやってしまう。
これは過去の2chに投稿された有名なコピペをどの程度記憶しているか試すという、たったそれだけの遊び。
以下が実際にやってみたやつ。
今回の文章一致度は62.5Pt。結構合っていたと思うが、漢字ひらがな表記やラストの一文をしっかり取りこぼしたこと、そして句読点と段落ごとの一文字下げを無駄に追加してしまったのが痛かった。
句読点に関しては、よく見ると本物のほうは
「あの流行りの曲かっこいい とか あの服ほしい とか」
に見られるように、読点の代わりに一マス開ける方法を用いている。
細部までもっとちゃんと見ないといけないなと反省した。
メリットはない。
猫
日を浴びて寝る猫。
数日前の写真。かわいい。
具体性のない不幸
以前ダ・ヴィンチ・恐山が日記の中で紹介していた、
という歌の良さが日を追うごとに自分の中で醸されていく。ちょっと現代短歌に興味まで出てくるくらい。
そしてこの歌についての恐山の言葉もまたいい。
ここで恐山は「具体性に傷つく」ような人間の「内容を伴わないつらさ」に着眼している。私は特にここが好きで、だからこそ「少しずつ存在〜」の歌はなんとなく恐山の言葉と相まってより印象に残っている。
心が鋭利な人はきっと精神の裡に名前のない抽象的な不幸を飼っていて、向き合おうと逃げ出そうと、必ずその不幸から自由ではいられないんだと思う。そういう全てについての。
・少し論旨がずれるかもしれないが、「人間失格」という小説は、入水やら酒や薬やら、そして結末も含めてその悲劇は具体性を持つようにも見える。しかし結局のところ突き詰めればこれも抽象的な不幸に由来するのだろう。
勝手な分別だが、幸福は具体的かつ能動的な代物だ。
そして不幸は抽象的かつ受動的だ。
幸福とは自ら進んで得る努力をした上で具体的な「ある状態」に身を置くことであると思うが、不幸というのはなにもしなくてもやってくるし、なにもしていなくたって人間は不幸だしなんなら生きること自体不幸だ。異論は認める。
ともあれことに長く抽象的な不幸と共にあれば、かえってその不幸に具体性を持たせようとするのもまた自然な心の動きだろう。
人間失格の主人公の破滅願望も、名前のない不幸に「破滅」という具体性を持たせようとしたがゆえのものではないだろうか。具体性に傷つくよう人間だからこそ、あえてその具体性の暴力に身を委ねるというか。でも本当の不幸はもっとずっと形がないものだ。
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