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地層のような : 日記
「そうだねぇ、あんまり走りすぎると足が擦り切れるからねえ。擦り切れて足がなくなっちゃうからねえ。摩擦で」
↑断片だけ聞こえてきて妙に印象に残っている、小学生と会話するおばちゃんの言葉。摩擦……。
・なんとなく子供好きには善人が多いというイメージがあるけど、実際、子供は好きだけどそれ以外の人類がまとめて嫌いな人種も一定数いると思う。自分がそう。でも摩擦のおばちゃんは好きだ。
・というわけでバイトで学童に行った。
今日は初めて将棋を見た子どもが、遊び方がわからないのでとりあえず「駒をなんらかの規則に従って四角の中に置いていく遊び」と認識し、それなりに楽しんでたのがなんか良かった。
あと、ルールを知る大人しめの子が隣でずっと「そうじゃないの……」と呟いてたのも良かった。正しさを主張しきれない、もじもじした感じが。ああいう子、なんか好きだ。
・将棋とかチェスとかの盤を使ったゲームって、もちろんルールに従い対戦する面白さはあるんだけれども、子どもの頃の私はむしろ一人で駒を並べ続ける遊びに熱中していた気がする。
特にチェスなんかはひとつひとつの駒が妙に凝っていて、どれもロマンチックな形状をしている。
単純に形だけ見れば一番好きだったのはナイトだ。でもゲームにおける駒の動きを加味してみると、少し癖が強くて使いづらい。その点ルークなんかがまっすぐ前に進めて正統派なように思えるが、形自体にはそこまで惹かれない。
そんな風に、形や動きを総合的に評価して自分の中でランキングを作りながら、私はほぼ脳内妄想だけでチェスで遊んでいた時期がある。飽きてくるとオセロとかの駒も動員して、チェス盤の上に王国を築いていた。無限の妄想。
ああいう遊びがだんだんできなくなっていくのはなんでなんだろう。想像力が貧困になっているのか、同じ空想にしても小説とか絵とかの、より体系化された空想の良さに気づいたからか。
・歩道の赤信号の、赤いおじさん、なんか怖くない? と最近思う。
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信号が青に変わるのを待っているのは自分なのに、なにを待っているかわからないけどなにかを待っている赤いおじさんが視界にいるのなんか怖くないか。「待つ」という行為の主格が自分から赤いおじさんにすり変わっているの怖い。
・さて、眠いので下半身関係の話でもするか。
・男子二人がじゃれあっていたんだけど、そのうち片方が
「ぼくのちんちん蹴ったらお前の恐竜の消しゴム取るから!」
と言い出してめちゃくちゃウケてしまった。恐竜の消しゴムってちんちんの痛みと等価だったんだ。
・最近、匿名ラジオの裏切り者回が好きすぎる。
特に後半、ARuFaが健康診断で幾層にも重ねられて地層みたいになった検便(うすーいうんこを重ねたもの)を提出するあたりなんかは展開が神がかっている。
「うんこ重ねたよォ?」
「うんこが重なっているはずがない」という医師(演 : 恐山)の予測を裏切り、地層のうんこを前に豹変する様はまさにマンガの裏切り者キャラそのものだ。そしてうんこを重ねたARuFaは高笑いと共に風船のように膨らみ、院内を跳ね回る。
このときの、なにを裏切られたかよくわかっていない恐山による結構声がでかい「はぁ???」がかなり面白くて毎晩聞いているし、聞くたびにどんどん面白く思われてくる。そうなってくるともはや脳内で再現できるようになっているので、今日もWiFi環境のない場所でひとり脳内ラジオを再生して爆笑していた。あのとき人が来ていたら、ちょっと嫌だったろうな。私が。
そして私は今日この話を料理中の妹にして、まあまあ怒られた。