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眼鏡難 : 日記


妹が送ってくれた猫。


 遠いのよ。

眼鏡難

・こないだ眼鏡が一晩妹の布団に潰されたせいでねじが緩んだ。また直してもらわないといけない。しょっちゅうなんらかの理由で眼鏡のねじが緩んでいる。

大衆を大衆として認知するエゴ

・強烈な信念というのはまた強烈な自我でもあり、それ自体社会という個の集合が平均化したものとは相性が悪いのだろう。信念を持つ者はいかなる場合にもそれを貫こうとし、貫くためには時に周囲の人間の考え方をも変えようとする。信念には、その信念によって大衆を啓蒙しようとする態度がほぼ必ず付随する。

 私自身かなり強めの信念持ち(名称)だが、普通にただのヤバいエゴイズムだと思っている。度し難いのは、エゴイズムであることを客観的に認識しながらも、常に自分と自分自身の信念の正しさを強く確信する感覚があることだ。およそこれは歴史上の名君、愚君共に有していた感覚ではないかと思っているのだが、だとしたら言えることは、良くも悪くも周囲に影響を与えることによって満たされ、また成立するメンタリティのため、善行も悪行も及ぶ範囲がでかすぎるということだ。
 いずれにしろこれらは、大衆というものを自らの導きによって変えうる存在であるとの個人の認識がなせるものではある。

・このところ、というかこの数年ずっと大衆との正しい向き合い方的なことについて考えている。
 このような問題の提起の仕方が成立するのは大衆というものが肯定しきれない部分を抱えているからで、それは簡単に言うと「愚かである」ところだ。例えば史学に見るに、民主主義の崩壊、独裁者の誕生、革命の失敗、だいたいこのあたりに民衆の「傾向としての」悪が発露している。

 そして愚かであるという特質は私の言葉に言い換えると「カス」なのだが、しかしカスだからと言ってカスを小馬鹿にすることは正しいのだろうか? いや、最悪小馬鹿にし続けたとして、もっとより良く、精神的に豊かな大衆との向き合い方があるはずなのだ。

 ここまで書いて思ったのだが、啓蒙思想というのはあるいはこういう発想から誕生したのではないだろうか。
 大衆の、傾向としての悪を憂いつつ、傾向としての善をもまた認識する。そして彼らの善性を最大限引き出してやる方法として、教育、啓蒙を選択した……的な。それこそが啓蒙思想家にとってのより精神的に豊かな大衆との向き合い方だったんじゃないか。

・大衆について考えていると精神的に暗くなってくる。それはおよそ彼らが認識せざるところの自分たちの不幸だからだ。そして認識ができないか、または甘いというところがまた不幸の根源だ。

 しかし私は実際のところ人々を啓蒙能うほどの精神的体力もなく、これまで多くの人間が身の丈に合わぬことをして破滅してきた例を見るに、一人で大人しく個人の不幸にでも思いを馳せていたほうがいい気がする。

・私はタイトルより先に作者を見て小説を読むかどうか決める、所謂「作家読み」派の人間だが、それは作品に多かれ少なかれ現れる作者自身の不幸を知りたいからでもある。誰か個人の、物質に依らない精神的不幸は、いつも私の想像をぐっと越えて、人間というものの深みを教えてくれる。幸福よりはるかに不幸は深く、確かな手触りを持ち、かえって温かでさえある。

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