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雑踏に呟く : 日記
・グッズが作りたい。例えば小さい三段くらいの棚を買って、好きなキャラクターが持っていそうなマグカップとかアクセサリーを置いておく。それを神棚と仮定し、朝夕に拝む。そうすることで「気」が溜まる。なに? 怖。
・今日も昨日に引き続き陰湿な日記。
・最近ずっと反省している自分の思考の癖。主に人間の性質について、行動や思考の傾向を二分化し、ともすればにそこにふたつの対立構造を見ようとすること。こういった浅慮がしばしば男女の二項対立をはじめとするあらゆる論争の元になり、いわれない偏見を生ぜしめている。
この世には単にAまたはBと分化してしまえるもののほうが少ないのだろうに。
でもそもそもなぜ自分は人間を把握するのにとかく二分化を用いてしまうのか? というとおそらくは、人間に限らず動的な生物というのは集団化すると多かれ少なかれ「傾向」というものを持つからだろう。単に社会というものを見てみると、社会という大きな傾向を持つ集団、そしてその中に似た気質の人間が集まってできた仮想の集団があり(仮想としたのは実際就職等のシステム上、性格の合致のみで集団を形成することはほとんどないからである)、またそれぞれが集としての傾向を持つ(ように見える)。
このような思考のプロセスが人間の二分化を加速させ、またあくまで思考上の傾向でしかないのに関わらず、実際の対立やそこに組み込まれない人の齟齬を生んでいるのではないか。
で、ここからが最近の悩みだが、こういった思考法から抜けるにはどうしたらよいのだろう。
事実人間というものは集を形成し、集は傾向を持つ。傾向を言葉によって把握しようとするとそれに名をつけざるを得ず、名はある種の矮小化を引き起こす。それがなんらかの要因となって二項対立が発生する。
結局のところ、目的は人間の性質の分析と把握であり、私はより高次的な思考法を以てそれを成さなくてはならない。
そのとき私は最早傾向の言語化をやめたほうがいいのか? それとも傾向を見出すことをやめたほうがいいのか? しかしなにかを「やめる」という迂回によってそれが成り立つのか? いや、二項の対立構造を招来する危険を孕んだ思考を続けたところで先に進むことができるのか? 思考そのものが偏見に基づいているというのは……。
わからない、なにも……。
・そもそも私のように人間に対する愛が欠けているとこういう思考の穴に陥りやすいのかもしれない。半数とまではいかないが、世の中の人間の44%くらいが明確に嫌いだ。
・というか私は、個としての人間も普通に嫌いだが、中には好きな個体もいるのであって、真に憎んでいるのは集団化した人間、つまり大衆という概念かもしれない。
個としての人間は(クソはクソだけど)さほど悪いものではないのに、集団に取り込まれるとその集団が持つ一種のエネルギーによって、集合した個は半ば等しくパニック状態になる。均一な思想が充分吟味されることなくはびこり、同じ価値観に染まることをよしとし、傍からみた自分の姿の滑稽さに対する想像力を失う。彼らはみな恥というものを知らない。こういう、数を恃んで思考をやめてしまう大衆の愚が、革命時にあまりに過剰な暴力が限定条件下での正当性をまといまかり通ってしまったような数々の悲劇を生んだんだから。私は一応民主主義者だが、民主主義を手放しで肯定できないのは大衆のこういうところのせいだ。
すべて人間が集団化することなく個であればいい。
・しかし私は自分という個体が好きすぎて、「個」至上主義的なところがあり、集団というものを根本的に見下している。その感覚と、歴史上の大衆のやらかしから導き出される「大衆って、まあまあクソ」というひとつの考えが妙に合致しているのかもしれない。
・おそらくはみんな、どんな概念、どんな集合、どんな個もどこかしらクソです。終わり。