健康学×縄文時代で見るとライフスタイルは面白い
散歩と健康
私は散歩が好きだ。特に知らない街をある事が好きだ。初めて行った街は何時間でも歩き続けられる。対して特別な何かがある訳ではない。路地裏や変わった看板、歩いている人、建物など、何をみても面白いからだ。これを僕はフィールドワークという事を最近知った。
新しい刺激を入れる
生まれ育った名古屋は、子どもの頃から歩きや自転車であらゆる道を駆け巡った。大学卒業後に働き始めたカンボジアのプノンペンでも同じだ。20年前のプノンペンはまだデパートもなく、エスカレーターすらなかった。僕がいた期間にカンボジア初のエスカレーターが出来たので、乗るのに長蛇の列ができて乗るだけで喜んでいた人たちを見た時が懐かしい。これもフィールドワークの途中にであった出来事だ。当たり前に乗っていたエスカレーターも昔は日本でもこんな感じだったんだと知れた。
歩いている時は、アイデアがどんどん湧いてくる。しかもポジティブなアイデアが湧いてくる。そんな中で新たな気づきや出会いが生まれる。歩かないのは勿体無い。約束でスケジュール詰めている事も素晴らしいが、僕の人生はフィールドワークが原点だから、時間ができたら歩きだすことを選択する。そしてまたワクワクする妄想に浸る。
歩行の起源を辿ってみたい
ある時、運動指導をしている中で、呼吸や姿勢を整えるエクササイズがあるのに、歩くことを習った事がないことに気がついた。思い返せば普通に生きていたら呼吸、起立、歩行の三大運動機能は、習う事がない。赤ちゃんからよちよち歩きを始めてから自己流で何万歩も歩いている。それはカラダ歪むよね。しかも、日本人は世界一座り続けてる現状。椅子も靴も欧米化した明治維新後のもの。我々はまだ道具を手に入れたばかりの文明なんだ。あれ?そもそも歩き出したのいつ?そんな事考えてたら辿り着いた縄文時代。直立二足歩行し始めた日本人のご先祖様は縄文人であり、1万年以上前から運動生理学や解剖学に書いてある我々のカラダに変化はない。ただ食生活やライフスタイルの変化から、当時の彼らの様な筋力や骨格ではなくなっている。この先、どんどん身体の構造は変わってしまうかもしれない。そう考えていると、歩く事を学ばない訳にはいかなかった。
自然に触れることを忘れない
アスファルト歩くだけでは、関節や筋力は使いきれてない。直線なものはそもそも一万年前にない。バリアフリーな世界は私たちの身体に本当にあってるのか?30-40代にそこに慣れてしまえば、他の選択肢はなくなる。運動なんて辛いだけの作業になってしまうだろう。これは食性でも言われている。縄文時代は、果実、木のみ、ジビエ、魚といった狩と採集中心の文化だ。これはいま必要な栄養素を、選択して食べていたと言われている。一方で、稲作中心の文化になったときは、米中心で凝り固まってしまった為に、栄養失調による飢餓が増えたと言われている。自らの選択ができる環境にしていくことは、ライフスタイルを豊かにすることにもなる。歩く場所も、山や自然の中を歩くことを選択するようにする事も身体の機能を衰えていく可能性を秘めている。
ライフスタイルに余白を
困りごとは、案外一万年前の縄文時代には困ってなかったことだし、歩くことに関しては間違いなく現代人の方が遥かに楽な道歩いてる。隣の集落や黒曜石を獲得くるなんてしなくてもいいし、狩もしない。火焔型土器なんかの装飾も、漆塗るなんかの工芸もする時間を我々はとる時間も余裕もない。縄文人だかではなく、このsociety5.0の世界で縄文のような原始体験を我々も見直し、自分の限りある時間をどのように使えるかを考える人が増え、ライフスタイルに余裕を持てると世界は平和になるだろう。