暮らしの中の癒しをつくる~仕事も暮らしもワンオペアラフォーの自己理解エッセイ_9/1~
少し前、家で育てている観葉植物が葉ダニにやられて弱ってしまった。葉の間に白い糸が発生し、葉の裏には黒い点つまり葉ダニが点在し、葉の色が緑から白に変色していった。はじめはそういう葉の種類なのかと思っていたら違った。自分の無知さと、見ているようで見ていない認知の甘さを呪いながら必死の救済をした。霧吹きを多めにしたり、鉢ごと水につけたり、無農薬のオイルを吹きかけたり。看病の甲斐あり、観葉植物に新芽が出た。部屋に植物があると心が癒される。自律神経にもいいのだと、東洋医学の先生が言っていた。
5つの植物それぞれに葉水をやった後、noteに向かう。テキストブログの執筆もまた、心が癒される。20年前以上、毎日ブログを書いていてそのことに気づいた。本当は、昨日出張で撮影してきた仕事の納期が迫っている。今までの私は、言葉を出したい自分のニーズを殺して仕事に向かっていた。しかし、癒しが不足し身体を壊した今、仕事は後で集中してやるから今は自分との時間を大切にしよう、と、30分の隙間時間をブログに充てた。かつての私のバイブル『ずっとやりたかったことを、やりなさい』著・ジュリアキャメロンの「アーティストデート」の軽やかな楽しさを今、感じている。
ご飯を食べ、バイトへ。私はほぼ毎日、人としゃべる機会がない。それどころか、息を殺している。それほど毎日行く職場が静かなのだ。
声を肉体に響かせ発声したものを人と分かちあうことは人間の根源的な欲求らしい。週約1回のバイトは、ひとときの癒しだ。接客なので声をだして人と共に交わしあえるし、職員同士雑談できるときもある。
雑談といえば今日、自然な話が上手なバイトさんが、暇な時間に社員さんたちと軽くおしゃべりをしていた。コミュニケーションを求めているのに雑談が苦手な私は、バイトさんを尊敬の眼差しで見つつ、できない自分と比べる。比較して落ち込むのは私の癖だ。
バイトではあまり喋っていると怒られる。けれども職員さんたちは合間を縫ってサクッと雑談している。私はその塩梅が掴めない。結果、話しかけてもらうまで喋らない。つまり、コミュニケーションが閉じた状況を自分で作り出している。
意を決して隣にいた職員さんに話しかける。業務に関係あることを切り口にして、教えてもらう設定にした。おそらく「雑談が苦手」を言い換えると「目的のない話が苦手」とも言えるんじゃないかと思うからだ。そういうタイプの人は、目的があるとたくさん話せる。
思惑通り、結果、無事に話せた。こういうことの積み重ねで自然と言葉が出るようになるのかもしれない。
その後、雑談上手なバイトさんが話しかけてくれた。バイトさんは、今ここにあるお互いが共有できる視覚的な情報をネタにしていた。そうか、そうすればいいのか。見る力が弱い私は、お互いが今何を共有しているのかの観察力と、そこにあるちょっとした驚きや謎を発見する力を身につけたいと思った。いやこれ雑談のハードル上げすぎかな。ともあれ、そのためにも、昨日のnoteで書いたクロッキーだ。
バイト先はお寺。私はお守りを頒布している。ゆえに、お客さんによく相談される。今日は、日本を経つ人へのお守りを相談された。悩みを一緒になって考えるのは好きで、そういう勉強を10年以上していたら、巡り巡ってコンサルの指導者になったこともある。
植物の栽培も人との交流も、こちらがしたことに対して反応がある。それをコンサルではフィードバック、とも言う。このフィードバックが他者と自分との間に相互に動いてこそ、癒しが癒しが起こるのだろう。
会社の出勤時間になったので昨日の日記はおしまい。