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おばさん直伝雑談奥義・地の反転で見方を変える

家から徒歩10分の場所に畑を借りていて、ソルガムという穀物を育てている。手がかからないので基本的に放置だけど、たまに様子を見に行く。今朝は1日おきの習慣・ランニングの日なので起床後に立腰体操をしてから走って畑へ。道中で、粋な外装デザインの旧商店を見る。毎回見ては毎回見惚れる。この商店を初めて見たのは、町のデザイナーさん主催の山歩きのイベント。デザイナーさんたちのことを思い出す。誰かと一緒に訪れた場所へ行くと、その人たちのことを思い出す。何を思い出すかは人によって違うのだろうけど、私は人を思い出す。まず先に思い出すことにはその人の価値観やものの見方の特徴が現れるので(私はそういうのを読み解くシゴトをしている)、自分は人なんだなあと思う。記憶の中ではいくらでも人と一緒にいられ。けれども普段あまり人といることがない。ひとりは楽でもあるけれど、それ以上に心の奥が寂しくなる。

2週間ぶりに畑へ。畑は顔見知りの方のお庭の一角にある。
ソルガムはうんと成長していた。黄金色の実も立派。

熟れてくると実が赤くなる。

しかし2本、根本から折れていた。台風だろうか。でも2本だけだから…動物?わけがわからず少し唖然としていたら、畑の奥にある貸主の家から家主たちの声がした。家主たちはこの後仕事で家を出る。私もこの後、色々予定がある。そんな中もし家主が出てきたら、何をさくっと喋り、どのように話を切り上げて自然に立ち去るかがイメージができない。
ランニング中ということもあり、すぐに去る。走りながら、もうすこし折れた様子を観察すれば良かったと後悔する。見捨てたようで罪悪感を感じる。いやまたすぐに行けばいいのだけど。

こうして書いてみて思うのは、もっと相手に委ねたらいいのだ、ということ。なんでも一人でやろうとしすぎる。私がいい空気を作らねば。私が楽しい時間を提供せねば。私が軽やかに結びを美しくせねば。前世に何かしたのかと思うほど強い罪悪感が心の奥底にあるからか、請け負えるはずのないものまで背負ってしまい、自分で自分を苦しめている。これは身体にも影響していて、去年、背中が自立しなくなってしまった。その後長らく治療をしているけれど、鍼が入らないほどに固い。なんでも背負いすぎ、ということだろう。折れたソルガムにすぐ背を向けて感じた罪悪感は、自分の心身をちっとも見ていない自分自身への罪悪感と重なった。


帰宅し、朝食をとり、準備して野菜を買いに地産の野菜が売っているスーパーへ。果物も野菜もとても安い。たとえばゴーヤー45円。なす8本で50円(B品)、ぷりっぷりのぶどうが400円(県外なら1000円近くする)。新鮮な野菜の色を見ると元気になる。
レジの、お孫さんもいそうなおばさまたちが「昨日テレビでダウンダウンの浜田さんがカップラーメンを食べているのを見て私も食べちゃった。でも、胃もたれでその後苦しくなって…」という話をしている。それを聞いたやや若いおばさまは、相手の言葉を受容し、その話題の枠組みだけを取り出してリフレクションするかのように話をつなげている。田舎らしい、やさしい風景だ。いいな。自分もあんな風景に溶け込める日が来るのだろうか、と、最終的に自分に意識を向けて落ち込む。この思考パターンを変えたい。

お会計のときにレジのおばさんが、私が買ったB品のナスのバーコードをスキャンしながら「うわぁ、これ、安いねえ」と言う。私「ですよね。どこがB品かわからないくらい立派です」おばさん「農家さんにとってはB品なのね」というやりとりが生まれる。誰も傷つけない返し。話のテーマ「B品」を地模様(ベース)にしたまま、<消費者にとっては>立派に見える、という私視点から<農家さんにとっては>と立場を変えてB品の新たな見方を口にする。おばさんから、雑談における編集的返答の技を学んだ。

長くなるので後半へ続きます。

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