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【短編小説】くちなしの死体は語る

 梅雨前線はしばらく関東に停滞するだろう、との予報をネットニュースで確認し、鍋島なべしまは顔をあげた。
 白色の蛍光灯が照らす八畳間は珍しくすっきりと片付けられている。それはやはり珍しく事前に訪問の連絡を入れたおかげかと思われるが、つまり今現在奥で煙草をふかしながら机に向かっている男は来客があれば人並みに部屋を片付ける人間だという事実のあらわれでもある。正直なところ、整理整頓が苦手なタイプだとばかり認識していた。記憶にあるこの部屋は、汚くはないものの常時本が乱雑に積まれては雪崩を起こしている、といった印象ばかりだ。
「意外だな」
 ぽつりと心中をもらせば当の彼は振り向きもせず応えた。
「きみがアポイントメントをとるのが?」
「いんや、お前さんが部屋を片付けてるのが」
「驚くことに、社会生活に必要な連絡スキルをきみが持っていたからね」
「お前さんでも部屋の見栄えを気にかける人間性が備わっていたんだなァ」
 様式美めいた応酬を終えて、彼は煙草を、己はペットボトルのミネラルウォーターを口につける。彼と会うと決まってといいほど飲み交わす仲だが今日に限っては仕事が片付いていないと断られてしまった。そんな日に客を上げるなと文句が出かかったがそもそも彼は突然訪問しても玄関先で断るということをしない男だった。事前に連絡があるかないかはあまり関係ないのだろう。それが鍋島だからなのか誰に対してもなのかは、今のところ判断はつかない。
「終わりそうかね」
 薄く開いた窓から外へ逃げていく紫煙を見送る。吐き出した本人は悠長に「まあ、そろそろ」と返した。
「優秀な学生達じゃァないか」
 彼はこう見えて大学講師である。社会人には見えてもまっとうな会社勤めには到底見えない彼の職を聞いたときはそれはそれは驚いたものだ。彼からすれば鍋島のほうが社会人にすら見えない、と事あるごとに口にするので相手に抱いた所感はお互い様らしい。出会いが出会いではあるし多少仕方のないところはある。
 ぼんやりと空気そのもののような沈黙を吸い、鍋島は胸中に蘇る情景へ思いを馳せた。あの頃も、似た空気を吸っていた。
 つまり、どちらも口を開くことなくただ共に時間を過ごす、そんな日々を。
 ――そういえば。
 この友人が「先生」と呼ばれる立場であると知ったのも、ちょうどその頃だ。


 それは市街からやや外れた高台のバス停での話。まだ世間が喫煙者に今ほど厳しくなかった時分である。雨上がりのアスファルトとの匂いを塗り潰すほど濃密だった草木の薫りを強く覚えている。
 今と同じように、悠々と煙草をふかす友人と並んで座っていたある日、擁壁ようへきの向こうからひとりの青年がやって来た。ボーダーの長袖シャツにゆったりとしたパーカーを羽織った、神経質そうな、線の細い青年だった。一昔前ならば「草食系」と言い表されでもしたであろう、近頃よく見る風体の、どこにでもいるような。
 通り過ぎるかと思えば、青年は軽く頭を下げたのである。所謂会釈を、彼は友人へ向けそして、「先生、ちょっといいですか」と言ったのだ。透明感のある落ち着いた声音だった。隣とは言えど間隔を空けて座っていた鍋島のことは他人だと判断したらしく、こちらへ目を向けたりはしなかった。当の鍋島は「先生」の一言にえらく驚愕していたものだが、ひとまず無表情を保てていたらしい。
「どうぞ。何の用事かな」
 律儀に煙草を揉み消してから返事をする友人を鍋島は横目で窺っていた。青年はやや痩せぎすのきらいはあるが、長身で見目も良い。酷い猫背でさえなければ人々の目線を奪うに充分だったろう。
「先日の、レポートの件なんですけど」
「ああ、面白い着眼点だったね」
「ありがとうございます。評価は受け止めています。ただちょっと、聞いてみたくて」
「質問? どうぞ」
 促すように右手を差し出す友人へ青年が投げかけた質問は、なかなかに印象深いものだった。だからこそ、今現在もこうして記憶に残っているわけだが。
 青年は余らせた袖口をぎゅっと握って、その問いを口にした。
「何故、犬猫を殺してはいけないのでしょうか?」

「そういやァ、あの学生どうした」
 思い出に耽りながらミネラルウォーターを飲む。味はないはずだが、何故だか甘い芳香がした。当時の思い出の残滓かもしれない。
「あれからけっこう経ったから卒業したか?」
「誰の話?」
「ほら、昔いただろう。犬猫を殺してはいけないのか、って質問してた若人が」
「……ああ」
 友人からの反応は鈍い。てっきり大学を辞めでもしたかと考えたが、追って返された答えは似て非なるものだった。
「仁志くんね。彼なら亡くなったよ」
「亡くなった?」
「そう。あのあと、一週間も経たないうちに」
「そらまたどうして」
「事故死、だと話は聞いている」
 友人が語るには、山へひとりでキャンプに行った際、足を滑らせて落ちたそうだ。
「……キャンプ? ひとりで?」
 訝しみながら尋ね返すも、友人の返事はそっけない。
「最近は流行っているようだよ。ミニキャンプとでも言うのかな、手頃に得られる経験が良いらしい」
「いやそこはわかるが。キャンプなんて、しそうになかったがなァ」
「人は見かけによらないからね」
「それもそうだが。突然すぎると言うか何と言うか。山に魅了されでもしたか」
「突然、だから事故死さ。俺は焼香を上げに参列した際ご家族と少し話をしたけれど、沢に落ちたようで、遺体は酷い打ち身だらけだったらしい」
 語られる痛ましさに鍋島は口をつぐんだ。頭では理解できるが、心ではどうも腑に落ち難い。いつの世も人死にはあるものだ。友人知人がある日いきなり命を落とす、なんて出来事が起こらないなどという保証はない。ないが、懐古感から親しみを込めて訊いた人物の安否がこうもたやすく儚くなるとは、予想だにしていなかった。
「俺ァ思い出話に花を咲かせるつもりだったんだが」
「献花でもしておいたら」
「誰が上手いこと言えと」
 軽口を叩きはすれど、明るい気分にはなれない。さきほどまで気にも留めていなかった雨空が途端に鬱陶しく感じられた。
「事故死か……」
 やるせない、としか言い様のない死因がまた溜め息を生む。
 ぱたん、とノートPCを閉じる音がして視線を遣れば、友人が仕事を終えたようだった。愛用の座椅子をこちらに寄せ、テーブルの上に置かれたままの缶へ手をかける。
「事故死だよ。この現代社会において、医師が死亡診断書を書き、かつ家族が本人と相違ないと認めそこに事件性がなければそれが『死亡』だ」
「やけに含みのある表現をするなァ?」
「別に間違ってはいないだろう?」
 間違ってはいない。いないが、妙に引っ掛かる。
「きみと違ってこちらは教え子だったんだよ」
 かち、っとライターを点す音が雨の八畳間に響く。なるほど、前言のひねくれた表現は彼なりのやり場のなさの、表れらしい。

 友人によれば青年の名は「仁志孝にしたかし」と言うらしい。
「薬学部に籍を置いていてね。出席率の良い真面目な学生だった」
 昨今珍しく自ら質問に来るタイプで教職陣からの評価も高かった、と友人は語る。
「実家が動物病院で、その一端で薬学を専攻している、とは確か本人から聞いたのだったかな」
「ほう、動物病院」
 それは初耳だ。しかし、と鍋島は首を傾げる。
「なら尚更、何故、と思わんでもないな」
「質問自体はね。殺してはいけないのか、と問うていたけれど、実際の主旨はこうだ」
 友人は缶の飲み口を指でこんこんと弾く。
「――何故犬猫の死と人間の死は同等に扱われないのか」

「犬猫に限らず命の殺生は推奨しないね」
「おれも同感です」
 あの日、仁志青年はそう答えていた。けれど、と彼は続け、
「世間では犬や猫……小動物が痛ましい描写をされる作品を殊更に憐れむでしょう。今日もSNSで見かけて不思議で仕方なかった。『注意喚起! この映画、ワンコが亡くなります』って。この文言、先生はどう思われますか」
 じっとりと湿りを帯びる空気に似た、懇願めいた眼差しだ、と鍋島は感じた。

 新しく火を点けた一本を美味そうに吸い、友人はこちらへ視線をよこす。
「きみはどう思う?」
「俺か? 俺はそうさなァ。必要な人間には必要なんじゃァないか。自身のペットと重ねて見るってこともあるだろう」
「確かにね」
「ほら、母親になってから子どもが怪我を負う描写が見れなくなったって話も聞くしな」
「これと似たような会話を最近聞いたな、俺も。学食で、同じテーブルについた学生達がね、話題にしていた。近頃公開された映画の話だったかな。主人公の飼い猫が死ぬ描写があって、それを知ったその子達は観賞の予定を変更していたね」
 そうだろうそうだろう、と鍋島も頷く。
「その作品、原作を読んだことあるけれど飼い猫の十倍人が惨たらしく死ぬのにね」
 首肯する首が思わず止まった。
「きみが言った内容自体は、仁志くんも考えていたよ。何せ彼の実家は動物病院だ。飼い犬や飼い猫を家族同然に愛して慈しむ気持ちを充分理解しているからこそ、何故それが人間には適用されないのか、と問うているわけだ。環境の違いはあれど、誰しも大切に思う人間関係はあるだろうからね。そこに人間と人間以外の差がどうして生まれるのか……といった疑問だ」
 教鞭よろしく振られる煙草を目にしながら鍋島は「だが、」と口を開く。
「まァ言いたいことはわからなくもないがこの世に人類が何億いると思ってるんだ? 全部が全部に感情移入していたら精神が保つまいよ。それにそういった対象になるのは庇護欲ゆえだろう」
「ああ。同感だね。それをいい大人には向けないあたり、人間の薄情さを物語っている」
「いやそこまでは言ってない」
「そう? 可愛い可愛いと愛玩してられるうちは情を注ぎ、そこを過ぎたら死に様すら娯楽にできるわけだろう」
「うむマジでそこまでは言ってない」
 鍋島は慣れたものだからいいものの、このような発言を彼の前でもしたのだろうか。
「さすがにもう少しオブラートには包んだよ。ここだけの話さ。それに仁志くんはどちらかと言えば『それ』を『善意』で『他人へ忠告する』行為に首を傾げていたから。動物達への凄惨な描写がある、気をつけて、とさも気遣うような顔をするその真後ろで人間が死ぬ事実に何も言及はないのか、ってね」
「そうは言ってもフィクションだからなァ……ってのは堂々巡りな話か」
 鍋島自身はと言えば自己投影するのもシンプルにそういった表現を嫌厭するのも「人による」としか言い様がないが、改めて指摘されると確かに青年の主張も一理あると思わざるを得ない。面白い着眼点だ、とはあの日の友人が口にしていたのだったか。
 友人によれば多少の質疑応答の後仁志青年とは別れたらしい。短い時間だった、と鍋島も記憶している。だからこそブックマークのようにその一時だけ刻まれているのだが。
「神経質そうな若者だ、と思ったんだよな」
「彼を? それはまた興味深い。何故?」
 友人の問いに鍋島は腕を組む。
「何故と問われると、なんでだろうなァ?」
 人生のほんの一瞬邂逅しただけの青年を思い浮かべる。今どきらしい学生だった。あの日は梅雨が明けたばかりでじっとりと暑い日だった。とは言え鍋島は年中暑がりでもあるので若人には肌寒い日だったのかもしれない。長袖を重ねていた仁志孝を思い出してそう考える。
「ああ、そうだ。仁志青年、腹痛そうにしてなかったか?」
「彼はいつもあんな感じだったよ」
「そうよ。それを俺は胃痛に悩まされてんだなって感じたわけよ」
 何か胃を揉む出来事が常に彼を苛んでいるようだ、と鍋島の思考回路は勝手に判断し結果それが「神経質そうだ」に繋がったのだろう。
「仁志くんは友人も多いし責任感もある。物怖じせず自分の意見を言える利発な人間だ。ピュアで几帳面なところはあるけれど、神経質ではないね」
「ほぉん。ならば癖か。どういう心理の表れなんだろうな」
「そこは門外漢だから知らないよ。でもおそらく、もっとシンプルな話だと思う」
「なるほど?」
 興味津々に相槌をうったものの友人は煙草を美味そうに吸うだけで返答はよこさなかった。今さら故人の印象をあれこれ述べても始まらないのは事実であるので鍋島も別段催促はしない。
 仁志孝はこの世を去ったのだ。
「アレ、単なる疑問だったのか気になるな」
 すっかりぬるくなったミネラルウォーターを口に運ぶ。友人は灰皿へ灰を落としつつ「社会に対する問題提起じゃあないかって?」と窓外を見上げた。雨足は次第に強くなり始めている。夏特有の濃い花木の香りも、今は雨の匂いにまぎれて隠れているようだ。
「どうかな。そんなニュアンスではない、と俺は感じたけれど。真偽は不明だ。話の続きをする間もなく彼は死んだ」
「……変死じゃァなかったんだろ?」
「事件性が認められなかったから事故死と処理された」
「警察だって無能じゃなかろう。事件の香りがあれば嗅ぎわける」
「どうだろう。状況に不審な点がなければ解剖もされないからね」
しの、お前さんはどう考えてる?」
 ぴたりと友人と目が合った。常時眠そうなその瞳が一瞬揺らぐのを見たが、やはり彼はすべてを口にはしなかった。
「いくつか思うところはあるけどね。彼の死という事実と、誰もが知っているような人物像から花を咲かせるのはいささか浅ましいものがある」
「ワイドショーに訳知り顔であれこれ言う視聴者っぽくはあるな」
「そう」
 彼は新たな煙草に火を点ける。鍋島が来る前にも相当数吸っていたのだろう、既に灰皿は山と化していた。
「故人に対して、失礼だろう」
「まァ、完全な部外者の俺が言うぶんにはな。だがお前さんはそうじゃァない。今咲かせてるのは真に思い出話だろうよ」
「そうかな」
「おうとも。これも献花だとさっき言ったのはどの口よ」
「上手いこと言うね」
「自画自賛が過ぎる」
 どちらからともなく笑い合い、それきり仁志孝の話は終いになった。ただ一言、友人は「良い学生だった」とだけ告げた。彼がこうも率直に他人を褒めるのは珍しく、いかに仁志青年の死を惜しんだかが窺える台詞だった。事故死、という公表にもおそらく納得せざるものがあるのだろう。
「犬や猫、人間、どんな命も同等だとするならば、俺達にできるのはただその死を悼むことだけだ」
「確かに」
 鍋島にとっては人生で一度見かけたきりの青年だ。よく覚えてはいるが、それ以上でも以下でもない。だが彼の眠りが安らかであるようにと祈るには、充分すぎる縁であるはずだ。
「それにしても、なんで不意に思い出したんだろうなァ」
 うーんと鍋島が首を捻っているとこともなげに友人は答えた。
「同じ香りを嗅いだからじゃないか」
「同じ香り?」
 今日は見ての通りの雨、しかし当時は晴れていたはずだが。合点のいかない鍋島を横目に友人は窓の向こうを指差す。
「ほら。アパートの玄関先に咲いているだろう。梔子が。うちのキャンパスにもあるんだ。きみは気づかなかったかもしれないが、あのバス停、キャンパス裏でね。擁壁の真上はこの時期梔子くちなしでいっぱいだよ」
「ああ! 毎年お前さんが移り香貰ってるヤツか!」
「語弊があるなあ」
 なるほど甘い芳香を記憶の残滓だと感じたのは同種の花の香りだったかららしい。
 それに、と友人はさらに言葉を継ぐ。
「香りは、何よりも人の記憶に残るものだからね」
 言葉よりも鮮明に思い出を喚起させる梔子の花は、物言わぬ故人となった仁志孝にふさわしい気がした。

 義兄の部屋を出て、仁志孝はそろそろと階段を下りた。リビングからは楽しげに週末の予定をたてる姉夫婦の声が漏れ聞こえる。
「ねえ、△△沢、予約満杯だって。どうする?」
「俺穴場のキャンプ場知ってるから平気だよ。キャンプ用品だけ持ってさ。近くに沢もある。釣りもできるよ」
 アウトドア好きのふたりらしく明日からレジャーへ出かけるようだ。なれそめもキャンプ場というからとことん趣味が合うのだろう。
 最後の一段を下り終えると同時に黒茶の毛並みが軽やかに走ってくる。ワンワン、と孝のまわりを嬉しそうに飛び跳ね、尻尾を振る。飼い犬のジョッキーだ。トイプードルにしてはやや大型だが人懐こい良い子である。
「ジョッキー、おれは学校へ行くんだよ。帰ってきたら散歩しような」
 最近また毛量が増えてきた頭をわしゃわしゃと撫でて、優しくハグをする。次のトリミングはいつにしようかと考えているうちに、リビングの扉が開いた。
「あら。孝、今起きたのー? 大学生だからって寝坊しすぎじゃない? お昼は? 食べてく?」
「いいよ。学食で食べる」
 ジョッキーは相変わらず姉に最も懐いており姉の声を聞くなり孝の腕からすり抜けていってしまった。
「孝くん痩せてるもんな~。もっとたくさん食べないと」
 寂しく思う間もなく義兄が馴れ馴れしく肩を抱き、孝の腹部を強く叩く。
「ちょっとお、やめてよ?」
「平気平気。男同士なんてこんなものだよな?」
「そう、だよ姉さん。いつものやりとりだって」
 嘘ではない。不安がる姉と爽やかすぎる義兄の笑顔から逃れるようにそそくさと三和土へ出る。玄関扉を開ければ、梅雨が明けたばかりの晴天が目映くきらめいていた。これから本格的な夏になる。その前に薄物の長袖を新調しておこう。なるべく肌が出ないものを。
 混雑のピークタイムが過ぎた学食は適度に空いていた。さほど食欲もなかったのでミニサイズのうどんとトッピングのとろろだけを頼む。広いテーブルの端に座ってうどんをすすっていると同じゼミの女子が話しかけてきた。
「仁志も遅いお昼なのー?」
「うん、そう。今日はレポート提出だけだから」
 三人ほどが孝と同じテーブルに座り、何やらフライヤーを見ながら談笑しだす。どうやらこれから映画鑑賞へ行くようだ。
「でもさ、さっきSNSで見たんだけど、ワンコが死んじゃうって」
「えっ! イッヌ~!」
「あーあたしそういうのダメかも!」
「仁志はー?」
 唐突に話を振られて思わず驚く。
「え?」
「仁志もイッヌが可哀想なの見たくない派~?」
 ちら、と机上のフライヤーへ目を遣ると近頃話題のいじめをテーマにした社会派の映画だった。荒れた教室の床に主人公の顔が押しつけられているビジュアルが衝撃的だ。
「おれは、犬飼ってるしそもそもそういうのは」
「だよねー!」
 どっと同意がわく。
「やっぱイッヌが痛そうなの見たくないよねー?」
 だから別の映画を観よう、と相談する彼女達の真ん中に置かれたフライヤーを孝はずっと見ていた。おそらく何者かに踏まれるか無理やり押しつけられるかしている、その痛ましい顔を、ずっと見ていた。
 ――犬猫に限らず命の殺生は推奨しないね。
 先日世間話ついでに言われた言葉を思い出す。そうだ。死んだら悲しいのは、どれも同じはず。同じで、あるはず。
 結局うどんは半分も食べられなかった。それどころかトイレで嘔吐してしまったので栄養らしい栄養は何も摂れていない。ただ胃のなかがぐるぐると不快感を訴える。嘔吐するのに胸部を抑えた際、できたばかりの青痣に触れてしまい無駄に痛みを増やしてしまった。この痣はいつついたのだったか。昨日か、先週か。そのまた先々週か。もうどれがいつの痛みか判別つかない。鈍痛のような腹部の不調だけが日に日に増していく。
 やっとの思いで帰りついた自宅にはジョッキーしかいなかった。姉夫婦は揃って不在らしい。緊張が解けて孝は玄関にそのまま倒れこんだ。ジョッキーが心配して顔をペロペロと舐める。
「散歩、行かなくちゃな……」
 くるくるとした毛並みを撫でながら、しかし孝は起き上がれなかった。身体が思うように言うことをきかない。次第に真っ暗になる視界のなかで、ジョッキーの弱い鳴き声だけがずっと聞こえていた。

(了)
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お読みいただきありがとうございました。
こちらは「花×ワードパレットアンソロジー」に参加した際のお話となります。
わたしのお題は「梔子」と(透明感/魅了/ピュア)でした。
個人的にはいい話(感動するという意味の『いい』ではなく)が書けたなあと思っているので気に入っています。やさしい話だとおもう。「やさしい」の意味も人によりけりかもしれないけれど。
読んでくださったあなたには、どんなお話に思えたでしょう?


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