ある離人感、シスジェンダー・ヘテロセクシュアル男性優位社会の延命装置としての戦争とは無縁の場所で……、

 生きているのか、死んでいるのかもわからない。二〇一九年末から、新型コロナ・ウィルスによる感染症が世界的に猛威を奮いいまだ終熄の兆しも見えないなか、二〇二二年二月二四日には、ロシアによるウクライナ侵攻がはじまって、人類史上稀にみる大混乱に地球規模で見舞われているらしいということを、掌中のスマートフォンを通して窺い知ることはなんとかできてはいるのだが、もう長くテレビのない生活を送っていると、なんとなくそれを点けているだけで入手できそうなあらゆる情報が、こちらから能動的に収集しようとしなければアクセスできない貴重なものだったのだとあらためて知ったのはもう五年以上もまえのことだったけれども、たとえ受像機にはりついていても現在進行形で同時多発的に起こるありとあらゆる出来事が、まったく虚構ででもあるかのような、というよりも、誤解を恐れずにいうならば、他人事にしかおもわれないくらいに、世間から隔絶した環境に身をおきはじめたのが、ではいったいいつ頃のことだったのかももう憶いだすこともできないくらいなので、社会から孤立しているこの情況がどうも異常なことなのだという認識ももはや持つことができずにいるのがはたしてどれほど危険なことなのかもよくわからない、と書くことで同情を集めたいわけでは決してないつもりなのだけれども、ただときおり飛びこんでくる、たとえばウクライナでは「国民総動員令」が発出され、一八歳から六〇歳までの男性が出国禁止になっているのだという短い報道に触れると、ふいに、もしも自分がかの国に住んでいたのだとしたら兵士として戦闘に加わらなければならないのだろうか、とか、同性婚が禁止されているウクライナでのLGBTQの権利保証がどの程度進んでいるのかは定かではないけれども、あらゆる差別を撤廃する法律を整備しなければ加盟できないはずのEU圏内においてさえ同性婚が法制化されていなかったり、権利を制限する法律が施行されている加盟国すらあることからすれば、不自由な社会生活を強いられるだろうことは想像に難くはないから、戸籍訂正を済ませられてはいないのならば出国禁止を免れることはないのかもしれないが、それよりもむしろ、男性であるというだけで戦闘に参加しなければならない、つまりは命を奪われるかもしれない危険性に曝されなければならないというのはどうも不条理におもわれてならないのだといささか脊髄反射的に考えてしまうのは、自身がMtFのいまだ性別適合手術を迎えられてはいないトランスジェンダーだからだが、ウクライナの、あるいはロシア連邦内に住まう似たような事情を抱えたひとびとが、非常時だからといってどのような境遇におかれることになるのかをおもうとこのように書きつけないわけにはいかないのだし、なにもウクライナ国内で苛烈な情況にあるのは男性だけでもなければ、LGBTQだけではないのは当然で、ほかにもさまざまな「社会的弱者」と便宜的に称されているひとびとにおもいを馳せずにはいられないのだとつづけたら、それこそ直接には七〇年以上戦争とは縁がなかった平和ボケした日本人だからこそいえる呑気な綺麗事だと叱られるかもしれないけれども、罷り間違って、一部の、とはいえないくらいには存在感を増してきている、この機に乗じてどこかの国が日本に攻めいってくるかもしれないといった主張とともに聞こえはじめてきた非核三原則の撤廃や、尖閣諸島へ日本人を常駐させるべきだとの議論がさらに現実味を帯びてきて、気づいたときには戦争に巻きこまれてしまっていたという事態は避けなければならず、平時だからこそ訴えられるのであって、ウクライナの「国民総動員令」への疑義をつづければ、なにも戦地で人権が軽視されるのは男性だけではないことは経験上痛いほど理解しているはずで、これが女性にとっても、その他の性別のものにとっても無関係ではないことは明白なのは、戦死の危機に瀕している男性というのは、誰かの息子であり、兄や弟であり、伴侶であり、父であるからだけではなく、ウクライナでは自発的に戦闘に参加している女性もいるわけだから、誰かの娘であり、姉や妹であり、伴侶であり、母であると重ねて述べるだけではなく、もしも戦死したそのひとを、身を挺して国家や家族を守ってくれたのだと英雄視することがあってはならないのは、「国民総動員令」の正当性を男性には国家や家族を守る義務があるという仮定の前提に求めているのだとすれば、それはまぎれもなく家父長制と性役割の正当化であり、強制異性愛主義規範の正当化でもあることはいうまでもないだけではなく、非常時には女性は男性に命を守られる存在なのだから、平時には女性は男性に命をあずけ、人権すら託すことを了承せよと強要されることを甘んじてうけいれることにほかならないのであって、またこれもすでにさまざまな議論がなされてきた通り、女性が兵士を産む性としての役割を国家それ自体から任じられることを是認するものでもあるわけだが、とすると子を持たない選択や同性婚が否定され、望まない生殖と兵役へとなし崩し的に参加させられることは避けられないし、これはつまりは自身がはじめたわけでもない戦争へと加担させられる暴力に身を曝し、あるいはいかなる理由であれ眼前にたつ敵兵へと銃口をむけなければならない義務、そうでなければ敵兵が放った銃弾をこの身にうけなければならない義務を否応なしに背負いこむことではないのかと、どうにもおぼつかない頭でそう思考しつづけるのであるが、自発的に国家を守る義務に奮いたって武器を手に戦う意志は尊重されてもいいのかもしれないが、くだんの「国民総動員令」はなにも出国禁止をいいわたされた一部の男性が当人の自由意志とは無関係に戦闘に参加させられ、他者の命か自身のそれを奪うか奪われるかといった惨たらしく非情な事態へとひきずりこまれるだけではなく、出国がかなった家族にまでそれによってもたらされるのかもしれない悲しみを酷薄にも強いる暴力そのものなのだといっていいのだから、こうしたしまりのないおもいめぐらしにも幾許かの意義はあるだろうけれども、ところでホルモン療法の開始や性別適合手術をうけるよりもまえに改名(名の戸籍訂正)を済ませたのには理由があって、二〇〇九年七月に東京家庭裁判所に赴いて裁判官に直接に説明したのを鮮明に憶いだすが、当時もいまと変わらず強い希死念慮を抱いていた身にとって、自死であれ、病死であれ、事故であれ、そのときにはすでに使用してはいなかった戸籍名のまま死ぬことが堪えられなかったからだというのは、もしかしたらなかなか想像されにくいのかもしれないが、事故死するとして、新聞等で報道されることがあったときに、おそらくは二〇〇五年末から名乗っていた通称名(現在の戸籍名)ではなされず、くちにするのも目にするのも忌み嫌っていた出生名がつかわれるのだろうことに我慢ならなくて、そうでなくても、墓碑だとか過去帳にそのおぞましい名前が刻まれることへの強い嫌悪と抵抗感にいてもたってもいられず、その頃インターネット上で入手できた情報によれば、性別適合手術を済ませていなければ改名の許可はおりないだろうといったものや、そうでなくても裁判所からの通知がくるまでに三か月から半年は要するようだと書かれてあるのを目にしても臆することなしに、出生名をあたえた当の本人である父が運転する車で、閉所時間ぎりぎりに永田町へとむかったことを、そして予想に反してたったの三週間であっさりと許可がおりたことを、その旨が記された、行政機関でよくつかわれている、少し灰いろがかってざらついたA4サイズの紙一枚を手に中野区役所を訪れ、所定の用紙に必要事項を記入して窓口に提出して一〇分も経たないうちに戸籍名の訂正ができたことを、生涯忘れないだろうと憶いかえすのだが、これが実際にはとても恵まれた経験であったのだろうことを想起してしまうのは、ウクライナに限らず、ミャンマー、アフガニスタン、ソマリアやシリアなど多くの国と地域で現在も起こっている戦争や紛争に巻きこまれている、あらゆるひとびとが直面する危機や苦難を想像せずにはいられないからで、そうした国や地域では往々にしてLGBTQをはじめとする「社会的弱者」の権利など保障されてはいないし、そればかりかそうだというだけで命を奪われることが常である地域もあるわけだから、こうしている瞬間にも不条理な死に追いやられたひとびとの恐怖や無念さをおもえば、ひとまずは殺されないだけまだいいほうなのかもしれないが、とはいえ現状ではたとえ安全圏であるらしい日本なりの生きにくさに直結した未解決の諸問題が横たわっていて、自身の事情にひきつければ、昨今とくにTwitter上で交わされている「セルフID法」にまつわる生煮えの議論や、ほとんどバックラッシュのようにさえ感じられるトランスフォビアなどがあげられるけれども、どうやらそうした主張をくりかえすものらにとっての不満の種にもなっている「性自認」や「トランスジェンダー」という語句の持つある曖昧さがトランスジェンダー当事者にとっても権利獲得のうえでの障壁にもなっているようなのだが、あえて強調したいのは、古典主義的なふたつの性別に特段違和感を覚えずとも属することができるひとびとであっても、性自認のゆらぎを経験したことのないひとはそういないのではないかということであって、現在では削除されているのか視聴できなくなってはいるが、YouTube上に「チャンネル桜」がアップロードしていた「日いづる国より」という番組のなかで、あるテレビ番組の制作会社からLGBTの知識を学校教育であつかうべきかを問われた杉田水脈が「私も女子校で育ちましたから、まわりがもう女性ばっかりなんですね。じゃあ、ちょっとかっこいい女の子がいたらラブレター書いたりとか、先輩と交換日記してくださいとかって、やったりとかしてるんですけど、でも、こう、歳をとっていくと普通に男性と恋愛できて、結婚もできて、母親になってってしていくわけです(【日いづる国より】杉田水脈、LGBT支援論者の狙いは何?[桜H27/6/5]」と述懐している通りに、また笙野頼子がFemale Liberation Jpに掲載された「集中連載「質屋七回、ワクチン二回」解題とその反響、受難、救い、今後 (中)」で「なるほど小学生くらいで母親からダイアナコンプレックスの「診断」はされているし、自分は生えてくると信じていましたが、しかし私にとって性器というものはうざいだけです」と書いているのを読んでも、性のゆらぎを体験していたことがわかるが、当然ながら杉田のいう「普通」にはいたらずに成人しても同性との関係を築きつづけるひともいれば、笙野が持った陰茎が生えてくるかもしれないという期待に裏切られて苦悩の日々を過ごすひともいて、そのゆらぎの幅はひとによってさまざまなので、時間が経つとともに解消される場合もあれば、増大していく場合もあって、性別違和が大きければ大きいだけそれぞれが望む性越境を開始するのだが、ここで留意しなければならないのは、それぞれが定めたゴールが当事者の数だけ異なっているということであり、それらひとつひとつを否定できる権利を持つものなど、ただひとりとしていないのだということは何度でもいいつづけていかなければならないのだろうし、ちなみになぜ性別適合手術をうけずに生活を送ることになっているのかを書いておきたいとおもうのだが、二〇一八年四月一日に平成三〇年度診療報酬改定が施行され、性別適合手術や乳房切除術などに健康保険の適用が開始されたけれども、実態は制度的欠陥を抱えた非現実的な制度だといわざるをえず、二〇一九年六月二四日配信の『日本経済新聞』の報道によると、「性同一性障害(GID)の性別適合手術に公的医療保険の適用が始まった昨年4月からの1年間で、生殖器の摘出や形成の適合手術に保険が適用されたケースが4件だったことが24日までにGID学会(事務局・岡山市)のまとめで分かった。この間、保険適用が認められる認定病院で実施された手術は約40件で、適用は1割程度にとどまる」とあり、「大半の患者は手術前に保険外の自由診療であるホルモン療法を受ける必要があるが、保険診療と自由診療を併用すると、混合診療と扱われ保険適用外となり、全額自己負担しなければならない」とつづくが、日本精神神経学会が定めた「性同一性障害に関する診療と治療のガイドライン」によれば、性同一性障害の治療には「精神科領域の治療(精神的サポート)と身体的治療(ホルモン療法とFTMにおける乳房切除術、性別適合手術)で構成される」とあって、改訂第2版では「治療は原則的に第1段階(精神的サポート)、第2段階(ホルモン療法と乳房切除術)、第3段階(性器に関する手術)という手順を踏んで進められる」とされていたものが、第4版改では「性同一性障害者の示す症状は多様であり症例による差異が大きいことがすでに記述されており、この多様性は、「生をどのように生きるのか」、そして「性をどのように生きるのか」という価値観ないし人生観の違いに由来する部分が大きいことが明らかになった。これは侵すことのできない基本的人権に属するものであって、可能な限り厳に尊重されるべきである。そこで、改訂第2版ガイドラインで示されていた段階的治療は廃止され、およそ公共の福祉に反しない限り、身体的治療として、ホルモン療法、乳房切除術(FTM)および性別適合手術のいずれの治療法をどのような順序でも選択できるようになった」と治療方針にいくらかの選択肢が設けられたとはいえ、「ホルモン療法により期待される」、「全身的な効果」は絶大であり、「MTFに対するエストロゲン投与では、乳腺組織の増大、脂肪の沈着、体毛の変化、不可逆的な精巣の萎縮と造精機能喪失などが起こり得る。一方、FTMに対するアンドロゲン投与では、月経の停止、体重増加、脂肪の減少、にきび、声の変化、クリトリスの肥大、体毛の増加と禿頭などが起こり得る。この中には精巣萎縮や造精機能喪失に代表されるような不可逆的な変化もあり得る」とある通りに、希望する性別での社会生活を円滑におこなうためにはおおよそ必要不可欠な治療であって、ホルモン療法を経ずにいきなり性別適合手術に臨むのはリスクも大きく、先述した『日本経済新聞』が配信した記事においても、「GID治療の指針では、手術前にホルモン療法を実施するのが基本。ホルモン剤を投与して望む性に近い状態にし、心身に問題がないかどうかを診る。精巣や卵巣の摘出後は性ホルモンの分泌が止まって心身に大きな変化が生じるため、ホルモン剤を継続的に使う」とあって、保険適用がなされた四件の手術についても「高齢でホルモン療法の必要がないなど例外的なケースだ」としているように、すでにホルモン療法を開始している患者が性別適合手術をうけるとなると健康保険は適用除外となるため、約七〇万円から二二〇万円までと高額な手術費用を工面しなければならないが、中学校を卒業してから二〇年近くひきこもり生活をつづけ、仕事らしい仕事に就いたことのない身にとっては到底用意できる金額ではないし、そうでなくても二〇一〇年から開始したホルモン療法における薬代や精神科の診療費だけでも大きな負担であることはいうまでもないのだけれども、ここでいつからか頭を擡げてきた疑念をあかすと、なぜ、女として生まれついたひとびとが支払う必要のない一〇〇万円以上の手術費用をかけなければ女として生きていくことができず、戸籍の性別を訂正するためには法律が定めた条件を満たしている必要があり、もしも戸籍訂正をすませたとしても「元男」といつまでもなじられなければならない不条理な現実とむきあわなければならないのか、と強く憤りはじめ、さらにいえば手術をうけ、戸籍訂正を済ませたとしても、性別違和よりもくわえてわが身を襲う強烈な生きにくさや、自身が自身として生まれたことへの、生きていかなければならないことへの嫌悪感や憎悪、無視しがたい抵抗感を拭い去ることはできないだろうという直感があって、もしかしたら自分は生きてなどいないのではないか、これまでに生きてきたという記憶や実感すらすべてが錯覚なのではないかというような、他方ではいかにも稚拙な「感覚」に囚われつづけているのは、それこそ己が障害者手帳を交付され、障害年金を受給している証拠ではないか、とおもいもするが、しかし自分が自分でしかないことへの強い当惑や希死念慮などがなにに起因しているのか、それがいつからはじまったのかも判然とはせず、小学三年生の頃から「死にたい」と漏らしていた自分が、そのおもいから逃れることなど決して不可能なのではないか、もちろん性別違和が生きにくさの一因であることは間違いないにしても、手術や戸籍訂正だけではとても太刀うちできないのではないかと懊悩し、生きていること自体がなににも増して間違いなのだという厳然たるおもいに生活のすべてが支配されてしまっているために、ほとんど掌中の情報端末からでしか窺い知ることのできない世間や社会、世界といったものまでもがなべて虚構なのではないかという誤った感覚が蔓延してしまっていて、なにか、こう、容易には解消できない認知の歪みを抱えている人間というものが、おそらくたったひとりではないだろうという予感だけが、かろうじて、逆説的に社会との唯一の接点になりえているわけだけれども、とすると、性別違和に限らないありとあらゆる困難がひとびとの眼前にはたちはだかっていて、先達らが苦悩しながら、どうにかこうにか智恵をしぼってよりよい社会を求めて歩んできたのだろうことをおもい浮かべると、なにかひとつでも、その一助になれないだろうかと考えてしまうので、卑近な手法でしかないのかもしれないが、ひとまずは性別にまつわる諸問題の解決にむけてこういう稿を起こしたわけだが、自身の経験に基づいて話を進めるなら、もうふたつ、性別適合手術をおこなわない理由があって、性別適合手術を経ることなしに戸籍上・法的な性別の変更が可能な国々(イギリス、スペイン、スウェーデン、カナダ、アルゼンチン、オーストラリアなど)や、性別が既存のふたつではなく、いわゆる第三の性別と呼ばれる記述を認めている国々(インド、カナダ、アルゼンチン、オーストラリアなど)がすでにあるなかで、さきに示した日本精神神経学会が定める「ガイドライン」にあるような性の多様性がこの国で認められるためには、「中途半端な」からだのまま社会で生きていくことこそが重要なのではないか、そうした「生体標本」として生きる姿をほそぼそとでも発信していくことで社会における理解をひろめられるのではないかと漠然とでもおもうのだし、おなじような悩みや苦しみを背負ったひとびとの重荷を少しでも減らせないだろうかとも考えるのだが、ついでにいい添えておくとするならば、いくつもの意味で曖昧な生を送っているにもかかわらず、なぜか自分自身の性自認だけは確固としてゆるがないので、わざわざ性別適合手術をいまうける必要もないだろうといった気分が三〇歳を迎えるあたりから徐々に醸成されてきたのだということは、今後どのような変化が訪れるにしても、無益ではないと確信してもいるのだけれど、


(初出:「現代思想」2022年5月号)

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