死にたい人へ
先に。
私はセラピストでも精神科医でも専門家でもない、ただの一般人です。
ただ、当事者として感じたことと、私がいま生きてることが、いつか誰かの何かに触れたらいいな、という思いから、言葉にすることにしました。
人それぞれに抱えているものは違うし、あなたの苦しみを私がどうにかして直接的に解決して差し上げることはできません。残念ながら。
デリケートな問題だし、素人が迂闊に発言しても良いのか、もっと勉強して正しい答えを得ないと発信してはいけないのではないか、という葛藤もありました。
それでも、私が直接助けられなくても、私が知っている誰かの言葉があなたの心を動かすかもしれないし、そういうキッカケになれたら私は嬉しいです。
私だって明日も生きているかどうかわからないから、だから今夜死んでも悔いのないように今できることをやろうと思います。
このnoteを目にしたのも何かのご縁と思って読んで頂けると幸いです。
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死にたい人へ。私がなぜ今も生きているか。
私の場合は、積極的な自死願望というよりは、ずっと前からある、希死念慮というものみたいです。
長生きしたいと思えないし、生きていたくないけど、私が死んだら周りの人が悲しむだろうな、それは嫌だな、とは思っていました。
肉体的苦痛に対する恐怖はあっても、死というものへの恐怖を具体的に感じたことがないというか。
子供の頃に死ぬことへの恐怖を覚え、そこから様々な宗教へと救いを求める人も多いそうです。
でも私はそうではなかった。
今は、今生の死よりも輪廻転生が怖いです。
生まれ変わって、もしまた人間としての命を生きることになったら、それは私にとって苦痛以外の何物でもないので、それが本当に怖いと。
でも、もう本当に何もかもがどうでも良くなって、どうしようもなくなってハマってしまった時は、それすら思い出しませんでした。
あの時決行しようとした理由は決して、間違っても誰かのせいではなく、ただ自分に耐えられなくなってしまったから、だと思います。
* * *
死を決行しようとした数ヶ月前に、ある精神科医の先生と話す機会がありました。
その頃も私はしんどかったんだけど、
『生きていたくないと思います。』
そう言おうとして、でも言葉にできずしばらく考えた結果、質問を変えました。
『生きていたくないと言おうとした、ということは、私は生きていたいということでしょうか。』
そんなの人に聞いても、と思われるかもしれませんが、先生はそれを受け止めて言われました。
『生きていたくないと思っているのは、意識の表面の、ほんの一部。無意識の部分では生きたいと思っていて、生きようとしてるでしょ?そこに耳を傾けて。』
いまもそれを時々思い出します。
死のうとした時にも、どこかに引っ掛かってたような気がします。
* * *
有名な芸能人が自ら今生を終えたニュースは、私にとってもショッキングなものでした。
死んだことそのものよりも、その方法が。
同じ方法を、少なくともしばらくは選べない。
真似したと思われたらカッコ悪いと思って。
死ぬのにカッコいいも悪いもないんですけどね。
でもそう思った時に、それはいま自死を選ばない為の言い訳だなと思いました。
やっぱり生きていきたいのかもしれないと。
自死を望む人は、いまの命に納得していない、より良い生を求める。
逆に言えば、それだけ生に執着しているとも言える。
そんな文献を読んだことがあります。
とても印象的だった。
探したけど、それがどなたのどのようなシチュエーションでの発言だったかは見つけられず、うろ覚えでごめんなさい。
私達は気付いたら生まれていて、私として生きている。
どんなに幸せな人生だと思っていても、どんなにしんどい環境に生きていても、自分でそれを選択して生まれた訳ではないと思います。
(これは間違っていると思われる方もおられるかもしれませんが。)
こんな時代に、こんな国に、こんな家庭に、こんな環境に、こんな自分に生まれたくなかった。
そう思っても、もう生まれて生きてしまっている。
そして自分からは逃げられない。
それをいつか、ちゃんと受け入れなければならないのではないかなと思います。
私にそれができたのかと問われると、即答はできません。
でも、少なくとも『生きていたい自分』もいるのだなと認めることはできるようになってきたと思います。
それが、いま私が生きている理由のひとつ。
ご飯を食べる気がなくても、部屋を掃除できなくても、仕事に行けなくても、本を読めなくても、音楽を聞けなくても、お風呂に入れなくても、眠れなくてもただ呆然としていても、それでも爪は伸びるし息もするし空は青い。
心臓も思い通りに止まってくれません。
死ぬことも生きることもできない狭間にいても、いま生きているのなら、そこに気付いて、もうちょっとだけ生きてみてほしいのです。
生きていくことは時にとても苦しいけれど、このまま死んで誰かを苦しませてしまうよりは、共に苦しんでいく道を、選ぼうと思います。
* * *
死んでしまったら、もう二度とあなたという人を生きられないから。あなたに会えるはずの誰かもあなたに会えなくなってしまう。
自分から逃げたくても、生きようとする自分を見捨てないでほしいです。
もうどうしようもなく落ちてしまって、自分ではどうしようもなくなったとしても、いまこのnoteを読んでいるということは、まだどこかにすがりたい気持ちがあると信じて綴ります。
助けてほしいと思えなくても、いまそんな気力がなくても、いつか思い出して。
直接会ったことがなくても、このnoteを読んでくれた人に、死んでほしくないです。
いつか、あなたの何かに救われる人がいるかもしれないし、それは私かもしれないので。
ほんの些細なことでも、例えば月が美しかったとか、ラーメンが美味しかったとか、そんなことでもあなたが感じた何かが誰かを笑顔にさせているかもしれません。
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https://twitter.com/masako_minato/status/1284380890664013825?s=19
↑この呟き、私はとても優しいと思いました。
様々な意見が流れていましたが、特にこの方のこの発言が心に残っています。
【可哀想な私】に酔っちゃいけない。と言う言葉も、苦しみにどっぷり溺れている時はそれすら見えなかったけど、あ、そうだったと気付かせてもらいました。
視点が変わるとわかることがあるから、感情に支配されすぎないで。
お散歩に出てみてください。
身なりなんてどうでもいいから、外の景色を目に入れてみてください。
この動画もオススメします。
6分くらいの軽いタッチのお話です。
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終わりに。
https://twitter.com/hiroshisj/status/1293920999738466304?s=19
死にたいと思うことは恥ずかしいことでも、弱いことでもないと思います。
生きていることに罪悪感があっても良いです。
苦しい時に苦しいと言えなくて、抱えたままの人も、もしかして見ず知らずの人になら話せるかもしれないので、このリンクも貼っておきます。
https://hasunoha.jp/docs/kakekomilink
精神科医の名越康文先生の記事も↓
動けなくても、漂っていてもいいので、自分を責めないでいてほしい。
流れが変わるまでは自分を守って、で、動けるようになったら周りをよく見てみてください。
きっとあなたを見守っていてくれる存在があるから。救いを求めて。
あなたの明日があたたかく包まれていますように。