突然走り出す娘の手を引っ張ったら児童虐待だと叫ばれた。
泣きながら帰ってきた。私は、児童虐待をしているのだろうか。
聞いて欲しい、そして意見を聞かせて欲しい。
3歳になる娘は、生まれた時から育てにくい部類の子どもだった。夜泣きは2歳まで続き、母乳育児をやめるまでの1年半は2時間以上続けて寝たことがなかった。好き嫌いは激しく、私が幼児食に関する本を読み漁り、どれだけ工夫して作っても食べてもらえない。子どもの集団に入るが苦手で、子育てサークルに参加すると大泣きして走って帰ろうとする。自分が好きなことができないとすぐ癇癪をおこし、その癇癪は1時間続くこともある。
でもその分、娘はこちら側がちゃんと説明し、その内容に納得すれば、きちんと相手の気持ちを理解する優しさと賢さも持っている。こだわりが人一倍強く、感受性が豊かなだけで、理由なしに騒ぎ出したりしないことは、母である私が一番理解している。だからこそ、私たちは私たちのペースで動くことが多く、団体で行動する訓練ができずにいた。それはずっと私の悩みでもあった。
さらに、私は娘と2人暮らし。夫はアメリカ、両親も仕事をしており、家族の助けを気軽に受けることができない。1ヶ月後のアメリカへの引っ越しに向けての準備が山ほどあり、かつ、フリーランスの仕事も複数あるので、どうしても娘に保育園に行ってもらわなければいけない時もある。そんな時、団体が苦手な娘は、保育園の前で盛大にぐずる。体が大きくなり、走るのも速くなってきたので、いきなり走り出して道に飛び出しそうになり、危ないことも度々あった。
2日前も娘の保育園に行ってもらう予定だったのだが、「どうしても行きたくない」と泣くので、その日はどうにか仕事を調節をして、「今回はあなたの気持ちを優先するから、次回はちゃんと保育園に行ってね」と約束したのだった。
今朝が、その保育園の日だった。保育園に預けて帰宅後、すぐにオンラインミーティングの予定だったので、どうしても行ってもらわないと困る。だから、昨晩から「保育園に行くお約束だったよね」と伝えていたのだ。家にいる娘は理解していたようで「保育園に行くから、キャンディー食べていい?」と言ったりして「保育園頑張るんだから今日はいいか!」とアニメもキャンディーもi-padも、盛大に許したのだった。
だから、少し安心していた節がある。案の定、娘は保育園の手前で逃げ出した。「約束だから、頑張ってみよう」と言っても、泣いて聞かない。5分ほどグズグズしていうと、そのうち一人で敷地の外へ走り出したので、咄嗟に、「約束したでしょう!走って飛び出したら危ないよ!」と私は娘の強く手を引っ張ったのだった。
その時、その様子を見ていたおばあさんが私のことを睨みつけ、
「そんなに強く怒るんじゃないよ、かわいそうに。それは児童虐待だよ。見ているだけで胸が痛いわ」
と言ってきた。胸が痛いわと言いながら、自分の胸を押さえていた。
私は、私がとんでもなく悪者になっているような気がして、血の気が引いて、立ちすくんでしまった。そして、これが児童虐待なら、私は一体どうすればいいのか、混乱した。
娘の手を離す。娘はそれでも、道路の方へ向かって行くから、やっぱり手を繋ぐ。娘は泣いていない。私は、泣いていた。どうすればいいのか。なぜ、そんな言われようを、赤の他人にされなければいけないのか。
きっとあのおばあさんは、このコロナの不安定な日常の中、一人ぼっちで、東京で育児をする辛さを知らない。そして、育てにくい子どもを育てることが、どれだけ孤独なことかも知らない。子どもを育てながら家で仕事をすることが、どれだけ緊張感を続かせるかだってきっと、知らないはずだ。
私だって、自分が怖い顔をしていることくらい分かっている。私自身が一番「なんでもっとおおらかでいられないのか」と悩んでいる。愛している娘に、寂しい思いをさせてはいないか、いつだって気にしている。
胸が痛い?私の胸の方が苦しくて、痛くて、もうボロボロなのに!
そう言い返したかったけれど、何も言えなかった。何かを言い出したら、その場で泣き叫びそうな気がしたから。
とにかく娘のことだけを見て「ママは仕事に行かなくちゃいけないよ。ママが仕事に行けなくなったら、〇〇の欲しいおもちゃを買ってあげることもできなくなっちゃう。それでもいいの?」と聞いてみた。
そうすると冷静に考えられたようで、「それはやだ」といって、娘は保育園に歩き出した。10時10分、オンラインミーティングの時間はとっくに過ぎていた。
おばあさんは、いつの間にかいなくなっていた。急いでミーティングに出られない旨を電話する。私の声を聞いて、察してくれたのだろう「いいですよ、大丈夫ですよ」と優しい声がする。
家に向かって自転車を漕ぎながら、ずっと涙が止まらなかった。
私は母親失格なのか、あれは虐待だったのか、私のせいで娘の人格形成に悪影響を与えたらどうしよう…様々な言葉が頭の中をめぐる。
今、家に一人、やるべき仕事も手につかずにいる。
それで、誰でもいいから伝えたくなって、今noteに書いている。
あのおばあさんは正義感を持って私に言っていたのだろう。それはわかっているのだ。でも彼女の正義のおかげで、私は心底、傷ついている。
人の一面、ある一場面だけを見て、一体、何がわかるというのだろう。
何か疑問に思ったとするならば、「どうしたのか?」と聞いてくれればよかったのに。もしも私の口調が強いと思ったのなら、その理由を聞いた後でもよかったのではないか。
私が「約束を守る」ことに対して厳しくなっているのは、これから引っ越すアメリカでは、親との約束を守らなければ命に関わる事故に出会う確率が格段に高いからである。銃もある。犯罪や誘拐も多い。そんな社会の中でこれから生きていくのだから、約束をきちんと守る素地を身につけてほしい。そう思って、少し厳しいことは自覚しつつ、娘に向き合っていたのだった。
そういう一面を聞きもせず、ただ一方的に自分の育児の成功譚を振りかざして、赤の他人に育児教訓を垂れるのは、どういうことなのか。
何が正しいのか、私にだってわからない。でも、今の世の中で、私のように、綱渡りのような気持ちで、ギリギリのところで育児をしているママは五万といると思う。だから、ここからはお願いである。
もしも子どもを怒っていたり、困っていたりするお母さんがいたら、いきなり説教するのはやめて欲しい。どうしたのか、なにかあったのか、手伝う必要があるのか、そういう言葉をかけてもらえたら、本当に救われます。
本当に虐待を疑われる場合であっても、いきなり「虐待するな」ではなく、「大丈夫?」と聞いた方がいい。ほとんどの母は、子を一番愛しているのだということを、どうか思い出してほしいのです。