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新しい生活様式に「余白」は不可欠。

新しい生活様式の諸々にも慣れてきた今日このごろ、どうしても慣れないことがあって、それは「オンラインの会話」。

一対一で話す分には、別に対面とあんまり変わらないからどうってことないけど、5,6人以上のZoomになると、話すタイミングを掴めない。

話す人以外は消音(ミュート)の場合は特に、私がミュートを外してまで「私の話を聞いてください!」というのもなんだかなあ…そこまでいうべきことかな…なんて思ってたら、話題が終わってるなんてことはザラにあるし、チャット機能を使って控えめにちゃちゃを入れるのが関の山。

会社員の友達からは、やっぱりオンラインの会議だと議題以外の雑談みたいなものは一切なくなるから、全部一直線でちょっとつまらない、という話も聞く。もちろん効率的ではあるけど、偶然から生まれる産物みたいなものは発生しづらいのだそうだ。

例えば、オフィスには一人ぐらい、仕事はめっぽうできないんだけれどその人のおかげで場が和む事務員さんとか、くだらないジョークを飛ばして笑わせてくれるけど、実際何をしてるかわからない人とか、「仙台四郎」みたいなラッキーフォーチュン的人材はいて、私はそういう人が大好きだし、その才能を心から尊敬しているのだけれど、100%オンラインになっちゃうと、そういう人の良さが生かされづらくなるわけで。

そういうのが、本当に寂しいというか…将来的にちょっと危ないなと思ったりする。

コミュニティに生きる人の暮らしを考えた時に、寄り道ができない余裕のなさというか、面白みのある人たちを受け入れられる余白がないと、そのコミュニティ全体が殺伐としてくるし、その思想が行き過ぎると「使えない奴はいらない」的な、優生思考的圧力が大きくなっていくと思う。

繊細だけれど共感力があったり、体力がないけれど緻密な作業ができたり、大きな声で意見が言えないけれど、思慮深く物事を見ていたり…そういう、本当の意味で世の中を豊かにしてくれている人たちの居場所が、このコロナの「新しい生活様式」に組み込まれているのか?というのが、私の最近の大きな疑問なのであります。

話はちょっと飛んで、最近、私が夜な夜なyoutubeでお腹をよじらせながら笑わせてもらっているチャンネルがあるのだけれど、

こういうのって、極論は無くっても我々生きていけるわけで。それでもやっぱり、殺伐とした時に笑いをくれる人って本当に素晴らしいし、こういう遊びを考えてくれる人がいるから、私たちみたいな人間が楽しく生きられる。そう考えると、こんな状況だからこそ、そういう日常の余白を楽しくしてくれている人たち、寄り道を提供してくれる人たちを、もっともっと積極的に応援しておくべきなんだと思うのです。

よく、技の熟達した人が「あそび」とか「のりしろ」が大切だというけれど、やっぱりそれが紛れもない真実。それがないと窮屈で全く使い物にならないなんてことは、物も人間の世界も同じこと。
コロナが落ち着いた時、寄り道すらできない殺伐とした世界ではなく、もう少し、人や地球に優しく、余裕を持って暮らせる新しい生活様式が根付いているようにと願わずにはいられない。


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