挑戦。そこで得るもの、失うもの。
保育士試験を受けてきた。結果はどうであれ、受けたことに意義がある!と、今週は自分を褒め称えなながらNETFLIXで見逃したドラマのキャッチアップに勤しんでいる。
試験に申し込んだのは、来年引っ越すラスベガスの家で、日本人の子どもたちも安心して遊びに来られるオープンなキッズスペースを作りたかったから。日本の保育士資格があった方が預ける親の側からしても安心だと思ったし、そもそも私自身、子どもが生まれてから教育や保育の面白さに気づき、もっと専門的な勉強がしたいと思っていた。だからはじめは「保育士の資格を取りたい」「保育の専門知識がほしい」という純粋な気持ちで試験勉強に取り組み始めたのだ。なのに、勉強を進めるうち「試験には一発で受かりたい(そしてみんなに褒めてもらいたい)」とか「結構余裕だったと笑いたい(そしてデキル自分をみんなに誇示したい)」っていう気持ちがムクムクと湧き上がってきた。ともすれば「資格取得」というピュアな目的が、いつのまにか「褒められたい」「すごいと言われたい」へとすり替わり、その「エセ目的」のために試験直前のストレスは半端なかった。
「失敗しちゃいけない」なんて、誰からも言われていないはずなのに、自分の思考が勝手に「失敗してはダメ」モードに。そして、胸が締め付けられるような圧迫感が続いていく。人が挑戦する時っていうのは、試験や試合、面接など様々な場面があるけれど、本来挑戦するべき事柄そのもの以上に、「内なる外野からの声」に振り回されてしまうという心の罠が潜んでいる気がする。
でも今回は、友達がくれた一言のおかげでその罠の沼に飲み込まれずに済んだのが幸いだった。
試験前日、「試験受けるんだけど、落ちたらどうしよう」という私に向かって、友人が「挑戦して得るものはあっても、失うものなんてないじゃん」と言った。その時も「確かに」と思ったのだが、その言葉の意味を心から実感するのは大失敗の試験が終わってからだった。
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ともすると人は「失敗すると何かを失う」と恐れがちだが、「一発のミスで死ぬほどの失敗」というのは、戦争や自然相手の仕事くらい極端な場面でないかぎり、そうそう出会わないシチュエーションだ。失敗をして、お金や、人の信用や、健康や…様々な大切なものを失うことは確かにある。それはとても悲しいことだが、それで人生が終わるのか?といったらそれはまた別問題なのだ。そこから何を得て生きていくのかということを考えると、むしろ「失敗があってよかった」と語る人は多いし、そういった偉人の経験譚は星の数ほどある。実際、私の身の回りの尊敬する人たちはどこかしらで結構なレベルの失敗をしているように思う。そして、興味深いことにたくさん失敗してきた人ほど、人間味が豊かで、人としての面白さがある。そしてなにより、眼差しに愛があるのである。
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私の小さな試験の失敗に話を戻そう。
最後まで迷った一問の回答を、試験の最後の最後で変更したことで、私は一科目を落としてしまった。そして、その科目は一科目落ちると自動的にもう一科目落ちる仕組み(二科目一緒に合格点を超えないとパスできない)なので、結果として二科目落としてしまったのである。
試験の休み時間に、サンシャインシティの階段に座りながら「落ちた…」と知った私は、一瞬にして涙目になった。正直、ワンオペ育児の傍ら、参考書片手に、文字通り四六時中勉強をして、仕事もして、我ながら結構頑張ったと思うのだ。それに、試験は半年に一回だけなので、再び受けるとすれば、私はラスベガスから日本に帰ってきて受けなければいけない。そうした様々なことが頭の中を駆け巡り、今後の手間と時間と、家族にかける迷惑を思って途方にくれた。でもその時、あの友人の言葉が頭によぎったのだった。
「挑戦して得るものはあっても、失うものなんてないじゃん」
得るものはある。失うものはない。−もう一回、頭の中で友人の声がする。
そう、冷静に考えれば「私は何も失っていない」のである。「試験に落ちる」ということは私のプライドを少し傷つけたかもしれないけれど、誰にも、何にも悪影響を及ぼしていないし、実際には「落ちた科目の理解度が足りなかった」「その弱点を克服すれば受かる」という事実を知れたので、むしろ成長の機会と考えた方が良いものだった。「失うこと」といったら、安くない受験費用や飛行機代を払わないといけないことだが、それは日本にもう一回帰ってくる口実になるし、ちょっと高い勉強代と思えば払えない額でもない。それに家族にかける迷惑といっても、基本的に家族は私を応援してくれているので、私が思うほど心配しなくてもよい事柄かも知れない。(実際、「試験落ちた…」と夫に伝えたら「じゃあ次のテストは一緒に帰国だー!」とウキウキしていた)
じゃあ一体、私は何を恐れていたのか?
結局のところ、私は「他人の目」を勝手に自分の中で想像して、勝手に震えていただけだった。「失敗したらカッコ悪い」「馬鹿な自分を世の中に晒したくない」「独学でも試験を一発で受かっている人はたくさんいる(んだからその中の一員にならなければ)」。そんな風に強く思い込んでいた。でも実際、そんな言葉を投げかけてくる人なんて、周りにはたった一人もいない。私自身が、頭の中に自分に一番厳しい批評家を作りだして、あれこれ想像を膨らませていただけだったのだ。
帰り道、自転車を漕ぎながら「でもまあ、夜な夜な必死に勉強したけど最後の最後でマークシートの答えを変えたら間違ってた、ってつくづく私らしいな」と思うと、なんだか笑えてきた。きっとこれが、今の私の「身の丈」。でも、そうやって回り道しても、不器用ながらに頑張り続けて、挑戦を辞めず、いつかはちゃんと目標を達成していく自分でありたい、と強く思う。
昔は、試験に一回失敗しただけで世界が終わるくらいに落ち込んだけど、こんな風に思えるようになっただけ、得るものは大きかったのだなぁ。そんなことを思いながら、風に吹かれて自転車を漕ぎ漕ぎ、家路を急いだのであった。