幸福を運ぶセミの声が、あなたのうえにも降り注ぐように。
降り注ぐようなセミの声を、湯立つような空気の中で聞いていたからだろう。ふと、自分が何年生きてんだかわからない感覚に陥った。
まるで、大阪のおばあちゃんの家に向かう路地で、麦わら帽子をかぶりながら自分の長い影を眺めていた、幼い私のような、
まるで、夏休みの中学校の校庭で、自分の流れる汗が乾いた地面に落ちていくのを感じた、多感な私のような、
まるで、初めての一人暮らしの古ぼけたアパートで、窓を開け放った朝の寝ぼけた私のような。
今ここにいる私の体に、今までの「夏の一瞬」が重なったような、そんな感覚。
その重なった一瞬一瞬のすべてに、今日聞いたようなうるさいミンミンゼミの声が、雨のように降り注いでいた。その音は割れるほど大きく、空気を細かく震わせて、私を包んで一人ぼっちにしてしまうようで、違う世界に連れて行ってしまうようだった。
今年は、私にとって31回目の夏だ。
予想だにしなかった、人に会えない、夏。
これまで過ごした夏は、どうだっただろう。無邪気だった夏、夏休みの終わりを憂いた夏、孤独に打ちひしがれた夏、バイトに明け暮れた夏、入院していた夏、異国で過ごした夏、子どもを宿した夏…その繰り返しは、永遠のように長かったようでもあり、一瞬だったようにも感じられる。
何重にもかさなった、ミルフィーユのような時間の流れのなかで、私がいられる、たった一度きりの夏。そのうえで、今日だけを生きるセミが鳴く。
ママチャリの後ろに娘を乗せ、信号待ちをしながら片足でバランスをとって、汗を流しながら、セミの大合唱を聞く私のことを、いつかの私はどのように思い出すのだろうか。
混乱する世の中のなかで、未来の見えないこの心細さと、太陽のせいでボーっとした頭の感覚を、昨日のことのように感じるのだろうか。
そういえば、ビバリーヒルズに住まう美しい老夫妻のリビングにあるソファにかけてあるカバーは、アンティークな黄色のセミ柄だった。プロヴァンス地方ではセミは「幸福のシンボル」なのだという。
どんな夏であれ、この夏は一度きりだ。苦しみの夏も、喜びの夏も、いつかは記憶の波にさらわれ、その一瞬のきらめきだけが残っていくのだろう。
セミの声を聞くすべての人に、幸福が降り注ぐように祈りたい。