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草木染めと暮らし

郡上の旅3日目は、同世代の子どもを育てている郡上のママたちと草木染め。東京から持ってきた真っ白なコットンシャツがどんな色に染まるのか、想像するだけでウキウキする。朝ごはんもそこそこに外へ飛び出す。今日も快晴だ。

樹々に囲まれた広場に仲間が集まってくる。当たり前のように、焚き付けに欠かせない杉葉や小枝を集めはじめるが、恥ずかしながら私は焚き付けのやり方も、杉葉も知らなかった。見よう見まねで集めてみる。仲間たちにとってはもはや準備運動のようで、軽々、斧で薪を割るママもいる。東京では絶対に見かけない風景に心が踊る。

薪を燃やし、5つの大きな鍋にたっぷり水を張り、山で集めた桜の葉、セイタカアワダチソウ、キッチンでコツコツ集められた玉ねぎの皮をそれぞれたっぷり入れ、グツグツと煮出していく。玉ねぎの皮は多いので鍋2つを使い、残る一つの鍋は最後のお味噌汁用だ。

染料が十分に煮立ったところで、天然素材の衣服を思い思いに染めていく。染色を変化させたり、定着させるために使う媒染液は、ミョウバンと鉄の2種類を用意。「今回はセイタカさんとミョウバンでいこうかな」なんて、慣れた人は色の変化を考えていたりする。私は初心者なのでとりあえず全ての鍋にシャツを突っ込んでみる。春から使い道のなかったアベノマスクも入れてみたり。思わぬところで”100%コットン”が活かされたかたちだ。草木染めしたら可愛くなって、使いたくなるかもしれない。

母たちが草木染めに精を出している周りで、10名前後の子どもたちが走り回っている。泣いていると思ったら笑っていたり、笑っていると思ったら泣いていたり。子どもたちの社会でよろしくやっているようだ。広場の端のピクニックマットの上でコロコロしているのは、1歳前後の末っ子達。彼らが大泣きしだす頃が、ちょうどお昼だ。一同に集まり、みんなでおにぎりを頬張る。あっという間に、賑やかな時が過ぎていく。

「そろそろいい頃かな」と、それぞれ染まったシャツやらズボンやら靴下を鍋から取り出す。布の色は、空気に触れてじんわりと変化していく。桜の葉は淡いベージュに、セイタカアワダチソウは薄黄色、玉ねぎは味のあるしっかりとした黄色に染まる。鉄の媒染液を使うと、さらに色が変化し、黄色はモスグリーンのような色にくすむ。

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冷たい湧き水で染まったシャツを洗い流していくと、色彩がくっきりと輪郭を帯びてくる。綺麗な色になったねーとお互いの染めを見せ合って喜びながら、次々に干していく。

秋日に揺れる草木染めの洋服たちを眺めていると、なんとも満たされた気分になるのだった。

ふと「こんな暮らし、いいよね」と娘に話しかけると「くらしって、なに?」と返された。

「うーん、暮らしっていうのはね…」確実なことが答えられず、スマホでカンニングをする。すると、「暮らし」の語源は「暗し」だという記事が目に止まった。「暮らし」とは「日が暮れるまで=暗くなるまで」何かを「する」という意味からきているらしい。

確かに、電気が発明される前の人々にとっては、東から太陽が昇り、西に沈みゆくまでが「暮らし」だったのだろう。個人的な感覚だが、やりたくない仕事をしている時、口実として「とりあえず生活しなきゃいけないから」とは言っても、「とりあえず暮らさなきゃいけないから」とは言わない。この微妙なニュアンスに「暮らし」の本質が隠れている気がする。

お金を稼いで日々を生き抜くのは「生活」かもしれないが、「暮らし」ではない。「暮らし」という言葉には、自然の営みに寄り添うリズムが流れているのだ。「太陽が出ている時に、なにかをしていること」それはすべて「暮らし」なのである。なんと伸びやかな、いい言葉だろうと改めて思う。

というわけで「今日は朝から夕方まで、たくさん遊んだよね?それを全部をひっくるめて”暮らし”だよ」と娘に伝えた。

あっという間に日が暮れた、楽しい1日だった。

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