アジサイは自分がいつから「アジサイ」と呼ばれるようになったのか、思い出そうとしていた。【掌編小説】

 アジサイは自分がいつから「アジサイ」と呼ばれるようになったのか、思い出そうとしていた。糸を引くような六月の雨は今日も街を濡らしている。もっとも、アジサイにとっては雨降り以外の天候など存在しないのだが。

 Chronic rainy syndrome。慢性雨降り症候群と呼ばれる、生きているかぎり雨に降られ続ける病。主治医が真っ白なカルテにその病名を書き込んだ日から、少女の名前は「アジサイ」になった。

 首都郊外にある中核都市。人口は70万人程度。ベッドタウンとしての機能を担っていて、都心への通勤者が多い。市街地は拓けているが山間部も多く、市の外れには湖がある。かすかに湖が望める山あいにクリーム色の壁をした不可思議な施設が見える。礼拝堂のような、病院のような。
 それがアジサイの家だ。

 窓から外を眺めるアジサイの目にはいつも雨が映り込んでいる。例え見上げているのが雲一つない青空であっても、それは変わらない。雨は彼女にだけ見えるし、彼女だけを濡らす。常に体に感じる雨気のせいなのか、切り揃えられた前髪は湿ったカールを描き、時たまポタポタと滴を垂らす。背中に垂れ下がった後ろ髪にはどこか不自然な重みがある。アジサイは机に落ちた透明な斑点を手の平でぐいと引き延ばして蒸発させた。アジサイはこう思う。雨の降る六月は世界のほうが私に近づいてくれる気がする。だから六月は嫌いじゃない、と。

 彼女はいま十五才で、これから人生で最も美しい時期を迎えようとしている。整った顔立ちはまだあどけなさを残しているが、翳りのある表情が彼女を大人びてみせる。思春期を迎えた同じ年頃の少年達はこぞって彼女に恋をするに違いない。しかし、アジサイは孤独だ。確かな孤独を抱えてこの家にいる。閉じ込められている、といってもいいかもしれない。おとぎ話に出てくる髪長姫のように。

 戦争は多くの悲しみをまき散らしたが、一部の人々には莫大な富をもたらした。アジサイの一族は後者だった。経済的な成功を背景にアジサイの祖父と父親は政治的な権力を手に入れ、名声、そして悪い噂と共に地方の名士としてのし上がっていった。彼らは中央の有力者との結びつきをより強固にするために、古典的な手段を取ることにした。許嫁という言葉はアジサイの背負うもうひとつの宿命だった。アジサイの母は彼女を産んでまもなく、感染症にかかって亡くなっていた。彼女は厳しい父親の手によって育てられ、誰にも優しい笑顔を向けられることなく育っていった。強権を振るう父に従うことが唯一の生きる術だった。
 アジサイの病気が判明したのち、彼女の父親は娘の奇病を取り除くため、持てる財産と人脈と権力を使ってあらゆる手段を講じた。その最たるものが彼女専用の治療施設の開設だった。山中に約一年がかりで立てられたこの施設にアジサイは連れてこられ、一日中窓の外を眺めて暮らすことになった。いまだにその治療方法どころか発生原因すらも解明されていない難病に対峙するため、父親は多くのドクターとスタッフを招き、娘と同じ病をもつ患者達をかき集めた。施設はひっそりと運営されていたが、この病気の研究に関しては最先端をいっていることは疑う余地がなかった。しかし、それだけの投資をもってしてもアジサイの瞳に映り込む雨を消し去ることはできなかった。

 アジサイはベッドの上で検査と投薬の日々を過ごしながら思う。父は私という娘ではなく、政略結婚のための駒が欲しいだけなのだと。その証拠に父は一年のうちに数えるほどしかこの場所に来ない。彼は私の顔よりも、医師達のレポートに目を通すほうが大事なのだ。必要なのは明るい娘の笑顔ではなく、健康を保証された女の体なのだ。そう思うたびに、アジサイの美しい顔にかかる翳の色が濃くなっていく。個室の扉を開けて長い廊下を歩くと、自分と同じ病気を持つ、何人もの患者とすれ違う。父によって連れてこられた人々。一生を雨に降り込められる人々。彼らは病気の治療と生活の保障を約束され、身の自由を引き渡してここにやってきた。そのせいか彼らの目は虚ろで生気の色が薄いような気がする。公言されてはいないが、きっと彼らは私の治療のためのモルモットなのだろう。アジサイはそう確信している。実際、アジサイの受ける投薬やその他の治療は彼らの臨床実験を経てからアジサイに与えられていた。アジサイはこの治療施設の発端であり、目的であり、根拠だった。医師達の奴隷であり、患者達の王女だった。アジサイは患者達と目が合う度に、痛みを感じた。罪悪感の針が小さな胸を刺すのだった。

 人が美しいと言われる季節は短い。類い希な美貌を持つ少女にとって、十代はかけがえのない時期だ。その貴重な時期をアジサイは施設に閉じ込められたまま過ごしていた。今日も雨は窓を叩いていた。朝食を食べ終わり、用意された色とりどりの薬を飲み込む。軽い眠気を抱えたまま、アジサイは窓の外を見た。雨のカーテンの向こうから一台の車がこちらへ近づいてきていた。施設のマイクロバスがまた新しい患者達を乗せてやってきたのだ。ふとアジサイは興味をかられた。自分と同じ年頃の人影が座席に座っているように見えたからだ。これまで施設に来た患者達はみな随分と年上の成人ばかりだった。それは未成年をこういった施設に拘束することが難しいからだったのだが、施設側はついに臨床実験に有効なアジサイと同年齢の患者を手に入れることに成功したのだった。もちろんアジサイはそんな施設の意図に気付くことはなかった。ただ期待を胸にロビーへと足を向けた。そしてアジサイの予感は現実のものとなる。彼女は新しくやってきた患者達の中の一人の男に恋をした。

 アジサイの行動は父親の命令によって厳しく監視されていた。特に男性との接触にはことのほか注意が払われていた。むやみに口をきくことすら許されなかった。無理もない。一族における彼女の役割とは有力者の家筋と結びつくこと。純潔は前提条件だった。

 アジサイは雨の音を聞きながら、考えを巡らせていた。どうすれば恋する男と二人きりになれるだろうか。何とかしてメッセージを伝えなければ。でも証拠を残さずにどうやって。アジサイは鏡をのぞき込み、自分自身に向かってそう問いかけた。思いがけず答えはそこに映っていた。

 翌日、アジサイは散歩をするそぶりでロビーをうろつくと、何気なく男の隣に座り、前髪から滴る雫で指を濡らし、テーブルの上に透明な文字を書いた。男は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、アジサイのメッセージに気がつくと小さく頷いた。アジサイは素早くテーブルの上の文字を消し、何事もなかったかのようにその場を立ち去った。企みは成功したのだ。その夜、二人は施設内の空き部屋で落ち合い、眠らない時間を過ごした。

 アジサイの妊娠が発覚するのに長い時間はかからなかった。父親は烈火のごとく怒り、医師達にすぐさま堕胎手術を行うように命じた。必死に抵抗したが無駄だった。アジサイはひと月の間、部屋に閉じ込められた。彼女が解放された時、男の姿はもうどこにも無かった。代わりに患者達の間では不穏な噂が流れていた。医療事故によって若い男が一人、亡くなったらしいと。アジサイは悲しみを通り越し、恐怖に震えた。父の一線を越えた、狂気とも思えるあまりにも冷徹な仕打ちに。

 だからアジサイは決意をした。その夜のうちに施設を抜け出し、彼女にだけに降る雨の中を駆けていった。

 山を下りて数年ぶりに見る街はどこかよそよそしく、知らない場所のようだった。すれ違う人はみな訝しげなまなざしでアジサイを振り返る。ただでさえ施設の室内着でうろついていて目立つのに、彼女の全身は病気のせいですでにびしょ濡れになっている。衝動にまかせて飛び出してきたものの、行く当てのない彼女はひとり、駅前のベンチに座って流れる人波を眺めていた。彼女を濡らす雨が足下に小さな水溜まりを生み出している。施設に流れていたもう一つの噂が頭の中に響いてくる。父の再婚をほのめかすその噂は、アジサイに更に悪い予感を与える。物思いに耽る彼女の背後にマイクロバスが停まる。雨のノイズは近づいてくる者達の足音を消し去っている。気がついた時にはアジサイの体は拘束され、ねじ曲げられて車の中に押し込まれていた。

 アジサイが再び体の自由を手に入れるのは、それから数年後のことだ。彼女は外側から鍵のかかる部屋に入れられ、強い投薬によって管理された。肌はやつれて輝きを失い、しなやかだった髪も荒れ、短く刈り揃えられた。その頃のことをアジサイははっきりと記憶できていない。ただ毎日、窓から雨を眺めていたことは覚えている。薬の副作用だろうか、それともあまりにも長く雨を眺めすぎたせいだろうか。アジサイの瞳は次第に色が褪せ、灰色へと変わっていった。

 部屋の施錠が解かれたその日、父は正装をしてアジサイの目の前に現れた。そしてこう告げた。アジサイに妹が生まれたと。

 解き放たれたアジサイは、一族にとって無用の人間に変わっていた。施設は形だけ存続された。新しい患者は集められず、ドクター達は脅迫と報酬で飼い殺しにされた。そこはもう医療施設ではなく、父の闇を秘し隠す暗い穴にすぎなかった。アジサイが最も美しかった数年間は、ただ無意味に過ぎ去った。彼女は考える。復讐の方法を。降り続ける雨を止める方法を。

 アジサイはレインコートを羽織り、新しいモルモットとなる患者を求めて街へと下りていった。

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