愛するという事
愛するという事はどういうことだろう?
まず、愛って何だろう?
アインシュタインが娘にあてた最後の手紙で、
愛はエネルギーであると言っていましたね。
私が思う愛について、今日はちょっと書いてみようと思います。
庭で、森で、山で、川で、自然の中で、木々を見上げたとき、
私はそこに愛を感じます。
50年~100年ほどもそこに立っていたであろう大きな木を眺めたとき、
何十年も、ただそこにたたずみ、その時代時代の人々を見てきたであろう木。
毎年決まって美しい桜の花を咲かせ、道行く人々を愉しませてくれる木。
毎年決まって木の実をつけて、動物たちのえさ落としてくれる木。
暑い夏、涼しい木陰となり、鳥たちのすみかとなっている木。
森の中に流れる川は、豊かな水をたたえ、やがて海にたどり着き、その流れの中で、たくさんのいのちを育みます。
それは、地球の愛であり、自然の愛であり、あるだけでいいという、愛そのものだと思うのです。
そして、元は海から生まれたすべてのいのちは、愛そのものであると思うのです。
全てのいのちが愛おしいと感じます。
生まれたばかりの赤ちゃんは、愛そのものです。愛の塊です。
そしてもちろん、私たち自身も愛の塊です。
愛するとは、その、愛そのものを感じることだと私は思うのです。
それは、大切にすることだと表現することもできるでしょう。
ありのままを受け入れるという表現もできるでしょう。
ところで、愛を感じるとき、からだのどこで感じますか?
少しの間、愛を感じてみてください。
大切な人を思い出してみてください。
次に、怖れや不安を感じるとき、からだのどこで感じるでしょう?
私の場合、不安や恐れを感じるとき、
思わず胸に手を当てる、胸の上あたりがもやもやします。
怖れや不安は、胸で感じ、体の中にキューっと閉じ込められていくような、そんな感じがします。
では、愛はどこで感じるでしょう?
私が感じるのは、みぞおちのあたりです。
大切な人を思う時、
子ども達を思う時、
胸の下のみぞおちのあたりがじんわり暖かくなり、そこから愛が放射されていくのを感じます。愛は、外に向かって放射状に広がっていく感覚がするのです。
皆さんはどうでしたか?
愛するという事は、愛を体で感じ、その愛を包み込み、受け止めることだと私は思います。
具体的に、私が子どもたちを受け入れるとき、どんなことを意識しているかと言うと、できるだけ私自身の「ああしてほしい」「こうしてほしい」という思いを挟まないようにしています。
この子はどうしてほしいんだろう?
この子は何がしたいんだろう?
と、観察するようにしています。
ただ話を聞いてほしいのかな?
認めて欲しいのかな?
今は一人でいたいのかな?
集中したいからそっとしたほうがいいかな?
ただただ、同じ空間にいて、その子を観察しています。
その時、私はみぞおちのあたりに愛を感じ、愛を放射しています。
愛の空間をそこに作っている感覚です。
暖かいまなざしというのは、そういう愛を放射した状態ともいえるでしょう。
こどもって、おもしろいな~。かわいいな~。そう思いながら観察しています。
だから、子どもがしてほしいことをできるだけしてあげたいと思います。
子どもがやりたいと思うことをできるだけ止めないでいてあげたいと思います。
できないことは、もちろん、それはできないと言いますが。
私の許容範囲はかなり広いと思うのですが、
自分の許容範囲の中で、時間が許す限り、愛の空間の中で、安心してやりたいことができるように。
だから、「待つ」ことがとても多いです。
それぞれに、安心してから動き出せるまでのタイミングが違うからです。
その子が動き出せるまで、ただ、愛を放射しつつ、待ちます。
それが私の「受け入れる」です。
もちろん、観察するだけじゃなく、話も聞きます。
本当はどうしたいのかを探るために。
そして、それは、子どもに対してだけでなく、パートナーにも、あらゆる対人関係でこの感覚を使うことができます。
「愛の放射」が、体感としてわかりづらいという方もいるかもしれません。
そんな時は、
まずは、かわいいな、愛しいな、大好きだなというものに触れてみる。
自然の中で木を見上げてみる。
道端のお花を見つめてみる。
必死に生きるありんこを見つめてみる。
地球に生きるいのちを観察してみる。
いのちに触れることで、だんだん愛を感じる感度が上がってきます。