ヴァージンVSにたどり着くまで 8 1971年 広島大学学園祭
ヴァージンVSにたどり着くまで8
1971年 広島大学学園祭
博多から広島へ移動し、今度は広島大学学園祭に出演です。
多分この出演の話はダムハウスのアニキから頂いたのではなかったか?
前日に到着し、夜は学内のダンスパーティーみたいな催しに出演。
京都に一回戻った塩次さんたちは当日入りなので、ダンパは大阪の若いバンドとセッションみたいなことをしたのだと思います。
宿泊は「青雲寮」という学生寮に案内されました。
当時の学生寮というのは、そらまあ凄まじいところが多かったです。
どのように凄まじかったのか、表現するのはちょっと難しい。
時代劇で素浪人が寝場所にする無人の荒れ寺のようなところに、学生諸君が沢山住んでいるみたいな感じかな。
現代では絶対に誰も住まないでしょう、というか、そんなところ無いもんね。
でも大丈夫、私は寝袋持参なので、大概どんなところでも対応できました。
この学園祭の委員長は確か歯学部だったと思いますが、俵本さんという学生さんでした。
実は俵本さんは次の年のコンサートにも呼んでいただきお世話になりました。
明けて翌日は学園祭コンサートですが、なんと野外グランドが会場です。
しかも、グランドの奥にどんどん大型バイクに乗った外国の方々が集まってきました。
いったいこれは何なのだ?と思っていると、俵本委員長がやって来て耳のそばで、
「あいつら、昨日までベトナムで〇〇〇やってきたんで、気荒いから気をつけてな」
とのこと。
そうなのです、当時はまだ「ベトナム戦争」真っただ中、岩国基地から米兵の皆さんがハーレーに乗ってやってきたわけです。
なかなか壮観な眺めでした。
私のようなバイクの素人にとっては、あんなに沢山のハーレーが集まっているのは後にも先にも見たことがない。多分ハーレーだけじゃなく、ホンダとかも混じっていたのでしょうが、私にはわかりまへん。
さて、このシリーズで以前にも書きましたが、当時はまだPAというものは一般的ではなく、ボーカルのみボーカルアンプというもので電気的に増幅し、他の電気楽器とバランスをとるというやり方でした。
しかし、この野外ステージ上では「電気屋さん」らしき方が来て、何やら作業が始まっています。
両袖にスピーカーの箱らしきものを積み、てっぺんには運動会のようなラッパ型スピーカーがのっていたような、いなっかったような・・・。
今から考えると「PAもどき」のようなものを、その「電気屋さん」は模索されていたのではないでしょうか?
そのような作業が進行する中、1人の外国人の方、たぶんハーレー組のお1人かと思いますが、私に、そのスピーカー群を指さし、
「PA system?」
と問いかけるではありませんか!!
「オレに聞くんかい!」って感じですが、そもそも「PA」てなんやねん??
わからないから、テキトーに笑ってごまかすニホンジン久保田です。
その外国人の方は、肩をすくめて立ち去るの図。
しばらくして、京都から到着した塩次さんにさっそく報告!
塩次さんの答えもまたすごい、
「それは、な、パワーアンプちゅうことや!」
「フランク・ザッパの曲にも出てくるぞ!」
・・・それからしばらくの期間、久保田はPA=パワーアンプだと思っていました。
でも、塩次さんの名誉のためにも言っておきましょう、その当時「PA」って何かわかってる日本のミュージシャンは何人いたのだろう?
多分、片手ぐらいしかいなかったのではあるまいか?
でも、東京の人々はみんな知ってたりして・・・。
それぐらい音楽情報の格差はあったということにしておきます。
で、このコンサートには京都からもう一組、「マックスウェル・サーカス」というグループが登場しました。
「マックスウェル・サーカス」は立命館大学の「キークス」というサークルに所属するグループで、CSN&Yやエルトン・ジョンの曲などをレパートリーとする、アコースティックバンドです。
実は後々久保田は、この「マックスウェル・サーカス」の蓮池裕二氏、平松利浩氏の2人とともに「田舎芝居」というジャグバンドを結成することになります。
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