ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお4
ヴァージンVSに辿りつくまでの久保田さちお4
1971年の、夏が終わろうとする頃だったと思いますが、ダムハウスのアニキからの話で、岡崎天王町の「キャッツアイ」というディスコに出演することになりました。
一晩に30分ステージを5回か6回だったと思います。演奏と演奏の間はジュークボックスを鳴らし、演奏の始まる前にジュークボックスの「電源を抜く」という作業でジュークボックスをストップさせます。
スイッチはなかったんかい?と思いますが、店の人に教わった通り「電源を抜く」のは私の係でした。
当時のディスコは「ゴーゴー喫茶ブーム」が終わった後で閑散としており、混むのは土日だけでした。
もちろんギャラは出ますが、1日1人1000円ポッキリ!ここから確か毎日の弁当代50円ぐらいが引かれていました。さすがに当時の物価でも50円の弁当というのは稀有な存在で、ご飯がちょろっと、キャベツがちょろっと、何かを揚げたものらしきものが1個ぐらいだったかな。
ここで練習を兼ねて出演し始めましたが、たまに「ストップザミュージック」やってくれ、とかのリクエストが来ます。
このあたりは塩次さん、お手の物で、私はやったことなかったのですが、「コードはこれこれ」「これを繰り返し弾とったらええねん」とテキパキと指示を出してくれました。
出演を始めてからすぐに、当時京都では有名だった「ルー&B29」のルーさんが、セッションしようということで来られました。
ルーさんは腰まで届くかというストレートな長髪で、当時我々が誰も所有していなかった本物の「フェンダーテレキャスター」で、エルモア・ジェイムスのようなEのブルースを弾き始めましたが、何曲やっても同じでした。多分塩次さんは「へッ、なんや」とか思ていたでしょう。
このころから、ウエストロードの初代マネージャーとなる岡崎タカオさんが登場し始めました。
岡崎さんは我々と同じく同志社の学生ですが、色々なコンサート会場やイベント会場で顔を合わせており、当時ダムハウスの中で作っていた「釜企画」を始めたのだったかと思います。「釜企画」のネーミングは「ナベプロ」に対抗しようという意気込みの表れでした。
モジョ・ウエストは裕也さんやPYGが登場するぐらいですから、「ナベプロ」との関係は濃厚だったのでしょう。しかし、「ロックはそんなもんやあらへん!」という、反抗に対するさらなる反抗。
さて、このキャッツアイに出ているとき、「ルー&B29」のドラマー、ビショップさんから、九州大学学園祭出演の話がやってきました!!
行きたいけど、ギャラは出ません!
どうするウェストロード!
というか、実はまだこのときバンド名はなかったのです。便宜上「ホトケのバンド」とか言われてました。
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