ヴァージンVSにたどり着くまで 11
ヴァージンVSにたどり着くまで 11
1971年10月の広島大学学園祭から帰って、しばらくは細川荘で居候のままボ~ッとしていたようですが、少し寒くなってきてから、たぶん11月に入ってから、また京都岡崎天王町の「キャッツアイ」というディスコに出演しました。
元田中の細川荘から岡崎天王町まで、永井さんと共に毎日歩いて往復するのでそれなりの運動量だったと思います。
ひょっとして、行きは時々市電に乗って行ってたのかな?帰りは間違いなく徒歩でした。
行きは百万遍まで南下し、今出川通を東へ、京大農学部前を通り、進々堂の前を通り、ダムハウス前を通り、やがて白川通りにぶつかり、白川通りを南下。
この白川通りを少し南へ下ったところの左側にアイスキャンデー屋さんがあり、夏場はよくアイスキャンデーを食べながら行きました。冬場はたしか「大文字焼き」というあんこが入った大判焼きがあり、これを食べながらキャッツアイへ向かうというのが定番。
そういえばこの頃、日常的にお酒は飲まなかったのです。健康バンドでした。
お酒をひたすら飲むようになったのは、次の田舎芝居からです。
確かこの時期ダムハウスは改修に入り、岡崎孝男氏が中心となり、工事を進めていたと思います。
なので、キャッツアイの帰りにはよくダムハウスに寄っていました。
既に客ではなく、なんか身内的な感じでした。
この工事期間中に岡崎孝男氏がみんなを励まそうと、自分の教科書を売りお酒、つまみを買ってきてくれて忘年会を開催しました。当時は良い人だったなぁ~・・・
レノン&69(後の都落ち)のドラマー、ヒロシ氏が大いに酔っ払い、
「東大安田講堂のバリケードの中で最後まで残ったんは中核やぞ~!!」
とひたすら連呼していました。
この当時、よく行ったお店で忘れてはならないのが、元田中の細川荘直近にあった「ピエロ」というお店です。
広さはとても狭く、今思えば客席は6畳ぐらいしかなかったのではないか?
ここは、関西学院大学で活動していたSさんという方が経営されていました。
ここでは、前出の「入道」こと西村氏や、京大生Oさんなど、なじみの面々とよく顔を合わせました。
で、1971年が暮れていこうとする大晦日。
京大西部講堂で「FUCK’72」という年越しイベントが開催されることになり、ウエストロードも出演することになります。
この「FUCK’72」を制作した飯田俊氏(現ゆうげい社)と先日お会いし、当時の話をはじめ大いに盛り上がり、その挙句、私は帰りに転倒しケガをしてしまいました、トホホ。
っま、それは置いといて、この「FUCK’72」を契機にウエストロードは東京方面にも名前が伝わることになります。
それは、このコンサートを取材に来ていた当時の「ニューミュージックマガジン」誌のSさんが、このコンサートの記事の文中にウエストロードの名前を出してくれたことです。
が、しかし、その文言が、私にとって致命的にマズかった。それは
「ウエストロードのたまらなくセクシーなハーピストなど、このコンサートには見どころが・・・云々」
これは他のメンバー、なんやねん!!ということにまりますわ。
おまけに、「月刊京都」(?)という地域限定誌のコンサートの写真も久保田が載っている。
載せるなら、塩次さんの強烈なギターワークとか、永井さんの日本人離れしたブルージーな歌とか、バックビート(当時このような用語は登場していなかった?)の効いたリズム隊とか、いくらでもあるでしょうに、よりによって、「ゴマメ」的に参加している私を取り上げんでください。という気持ちでした。
この時期辺りから、どのタイミングでウエストロードを去り次のことを始めようか、と考えるようになりました。
でも、まだまだ「BLUES」は自分の体の中に入っていない。
私は、欧米のROCKミュージシャンと同じ土俵の上でROCKというものを作るには、彼らの背景である「BLUES」、「C&W」、他欧米のルーツミュージックといわれるものを体に入れなければ作れないのではないかと思っていたのです。
この考えは、今も半分変わらず、後の半分は「そやけど、ワシら日本人やし・・・」というところなのです。
この、「そやけど、ワシら日本人やし・・・」というところが、後の田舎芝居やヴァージンVSにつながっていくのかもしれません。
他に「FUCK’72」の出演者で強烈に印象に残っているのが「ゲッセマネ」というバンドでした。
ブラインドフェイスの曲だったかで、延々ドラムソロを展開する少年。
これがなんと、日本を代表するドラマーの1人、古田たかしさんの小学6年生か中学1年生の頃の姿だったのです。
ええもん観せてもらいました~~。
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