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好き勝手な偏愛レビューをちゃんと「共有」してみたいと思った話。
私は映画館で邦画を見るのが好きだ。
見終わった後に、友達しか繋がっていないFacebookで、超個人的で主観満載な感想らしきものを呟くところまでが大好きだ。
感想を「呟く」というよりは、叫んで吐き出す、という感じ。これは一つのヲタク文化だと私は思っているんだけれど。
いわゆる「萌え語り」である。
若かりし頃、インターネットが一般的に普及する前。電話だって、カケホーダイなんてサービスもない。友達との長電話は、親子喧嘩の火種でもあった時代。
アニメや漫画、ドラマや映画などを見た後に滾った想いを書き(描き)殴り、それを”FAX”で友達に送りつける行為が流行っていた。それはもう巻物と呼ばれるような長さで、感熱紙がいくらあっても足りなくなるペースで送り合っていた。
「一方的な共有」は楽しい
そんなFAXでの発信行為が時代と共に、ブログやSNSに変わっていった。頻度や読む相手は変わったけれど、私にとって、作品を「見て」感想を「書いて」友達と「共有」する楽しみは変わらない。
ただ、若い時は自分と同類のヲタク的な趣味を持つ友達とのやり取りだから、「共感」も得られやすくて楽しいものだと思っていた。
でも現在は、共有する相手が変わってきたせいか「共感されて楽しい!」と思うこともすっかり少なくなったなーと思う。
それでも、相変わらず感想らしきものを吐き出すのは楽しい。
つまり私は「共感」が生まれるの前の、「一方的な共有」だけでもそれなりに楽しめるのだろう。
そんなふうに「一方的」でも楽しいのならば、この映画の感想らしきものをnoteにもアップしたくなってきた。
「自分が楽しい」を言い訳にする準備
ただ、画面の向こうに居るリアルの私を知らない人に向けて「一方的な共有」を垂れ流す以上、なんらかの言い訳を準備をしておきたい。大義名分が欲しい。いや大義じゃなくていいんだけど。
何のために、何故やるのか。
結論から言えば「自分が楽しいからやる」のだけど、自分の行動に意味を持たせたくなる癖なので仕方がない。
今からこの部分をもう少し掘り下げて言語化してみようと思う。
「一方的な共有」を楽しむ心構え
私の感想らしきものは、あまりに超個人的で主観に満ちて偏っている。あらすじも書かず、見た人にしか伝わらない内容。毒も吐くし、ネタバレもお構いなし。ただひたすら妙なテンションで、妙な視点から妙なことを書いている。自分だけが楽しいこの行為。
読んだ人を楽しませようという気持ちはさらさらなく、作品を好きな人にはイラッとさせてしまうかもしれない。なんなら妹から「気持ち悪い」とすら言われたことまである(笑)。全く生産性がない。
でも、もし誰かが私の感想らしきものを読んで「映画の内容は全く入ってこないけど、この人が言っているそんな妙ちくりんなことがこの映画で起こっているの?」と事実を確認したくなったらどうだろう。
そうなったら、私は嬉しいなと思う。
酷評ばかりのレビューを見ていると逆に興味が湧いてしまうアレに近い?
「一方的な共有」が何かを生み出すかもしれない
そして、もし私のこの感想らしきものがきっかけで、作品に興味を持ってくれて、さらにその作品を見てもらえたら、私のこの生産性のない「一方的な共有」が、何かを生み出したことになる。
おまけに映画を観て「さちさんの言ってたことわかるー!本当にそうだったー」なんて共感が得られたら、私、超楽しくない?
それはそれは大それている妄想に発展してしまったけど、なんかちょっとワクワクしてきたぞ。
あくまでも「共感」を目指さないスタンスは変わらないと思うけど、おまけの楽しみが待っていたら行動しやすいかもしれない。
そんなわけで、これまで書いたものや、これから書くものも、少しずつこのnoteで一方的に共有してみることにした。
続く…きますように。
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