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諦めない私の仕事の就き方

宗教二世、虐待サバイバーのさちんぬです。

幼少期から暴力・暴言・ネグレクトにプラスしてカルト依存した両親の元に生まれてこの年になるまで本当に色んな事がありました。

あらゆる治療の中で精神科に長期入院し、そこから色んな方を知り、学びを得て今に至ります。

さてそんな私は自分自身に対して非常に負けず嫌いの性質を持っています。

つまり諦めが悪い。

人が関わることに関しては諦めが悪いと相手にご迷惑がかかりますので、
自分限定で非常に諦めの悪い人間が私です。

例えば仕事について。

色んなバイトや仕事をしてきましたが、自分の信念の元、独学で勉強し、長く続けてきたものは研究職になります。

上京して今から20年前は、まだまだ仕事は情報誌に頼りながら探す時代でした。

コンビニにあるアルバイト情報誌を購入し、自宅で詳しくページを読み進めていくと、東京女子医科大学で遺伝子研究補助のアルバイトを見つけました。

わたしはもともと理数と絵が大好きで、どちらかの道に進みたいと子供の頃から決めているタイプでした。
中学三年生、なんとか絵の学校に合格したものの、カルトに依存した両親に宗教系学校以外認めない!と言われ結局絵の学校には通えなくなりました。(激しい悲しみ)

その後は高校をどうするか迷いましたが、中卒で働くと風当たりがなかなか大きく、『せめて高校に行きたい』という話をすると宗教に出すお金しかないのだから、お前が高校に行きたいなら勝手に自分で行け!ということで(さらなる怒りと悲しみ)

自分で行ける高校、定時制高校を選択し、日中働き学費を払い四年間の高校生活を終えた卒業式当日、新千歳空港から上京しました。

そんな感じだったのでそのバイトが高卒でもokで歓喜した私はすぐに履歴書を書き面接を受けに行きました。

結果は合格。

まあ遺伝子研究補助なので最低限の知識と細かい作業(顕微鏡の扱い、ピペットマンの操作)などが出来れば比較的誰でも出来るかと思います。

学校に行けなかったのなら、実践で補えばいい。そういう気持ちで仕事に就きました。
足りない知識は職場で聞き、その上で独学で補えばいい。諦める理由にはならない。

実際初めはアルバイトで入りましたが、試験に合格すると嘱託職員になれる職場だったのです。

その後酷いウツを発症し、全く動けない時期や複雑性ptsdの治療で長期入院するなど安定して働けない時期も長くありましたが、研究職は好きだったのでブランクがありつつも体調が良くなってからはまた研究技術員の仕事を探すようになりました。

しかし上京したばかりの頃と違い、その頃はもうほとんどの研究技術員の職は大卒、もしくは専門卒が基準となっていました。

一応少しは高卒でもokな研究所もあったのですが、自宅から通える範囲外にあるものが多く、ここでわたしは一度諦めようと思いました。

そんなある日、絵描きの友人から『ここにこんな研究所があるよ!』とわざわざ連絡をいただいたのです。

その方は当時ご主人を亡くし、とても大変な時期でした。私はその頃バイトでカフェギャラリーを手伝っており、そこでその方がまた絵を描く決意をし、展示中に色んな話を聞いたりしていたのでした。

大変な状況にある方がわざわざ私のために仕事を探してくれている!!!

と心揺さぶられ、諦めちゃいかん!と自分を鼓舞し、完全にダメ元で興味のあった脳科学の研究をしていた慶應義塾大学医学部解剖学教室に履歴書を携え面接に行きました。

まあ落ちるだろうな、と思っていました。

だって募集要項に大卒必須の記述があり、普通はその時点で面接に行こうとは思わないからです。

面接する方においおい、よく募集要項を読めよと思われるだろうなと思いつつ、ここはダメ元でも動こうと面接に挑みました。

面接ではまず、私がこのような事情で高卒であること、高卒であるのに面接に伺ったことをお詫びしつつ(無駄な時間を割いてもらってる状態ですからね…)
研究に対して情熱があること、独学で勉強し続けていること、女子医大時代に遺伝子研究を手伝い、学び、実践出来るスキルを伝えると…


なんと合格しました!!(狂喜乱舞)


まあ…正直自分が一番驚きました。笑

ええ!まじで?いいの!?と同時に面接してくださった先生たちに感謝しました。

仕事は遺伝子改変マウスを作成して、脳を取り出しスライドにし、顕微鏡で見ていくような作業内容です。

遺伝子は切ったり貼ったりして繋ぐことが出来ます。
それをまだお母さんマウスのお腹にいる赤ちゃんマウスの脳内に非常に細いガラス針で注入し、電気パルスで固定します。

そしてまたお母さんマウスのお腹を縫って閉じ、出産してもらうのを待つ、という感じです。

私は英語が苦手なのですが、毎週英語のみのミーティングなどもあり(私は参加しなくても大丈夫なものではあるのですが)

理解したり、追いついたりするため休みの日はずっと遺伝子と脳について勉強の日々でした。

ですが、このような仕事に就けたありがたさの方が大きく、なるほど、最初から無理だと決めていたらこの職場には絶対辿り着けなかっただろうなと実感してゆきました。

本当にありがとうございました!
普段コンタクトユーザーですが顕微鏡は目が乾く!

その後、大動物にも興味を持ち、自宅から通える範囲で、かつ、大動物を扱っている日大板橋病院循環器内科の募集を見つけ、そこでもやはり学歴の部分で引っかかったのですが

そこはもう!慶應で乗り越えてますからね!!
またダメ元で行くわけです。
高卒なのに。笑

でも知識と実践はありますから!!
そこを強く押し出しました。
人との協調性もアピールしました。(仕事をする上で本当に重要ですからね…)

そして、合格させて頂きました!笑
本当にありがとうございます!!!

…高卒か…
慶應…慶應でも働いてたならいっか!
みたいな反応でした。笑

実際、研究所と大学病院でやるべき仕事はかなり違った部分も多く、初めはかなり戸惑ったりまた独学で補う量も多く時々意識が遠くなりましたが笑、良い先生方が多く、勉強以外でも様々な学びがありとても感謝しています。

私のデスク。やはり楽しいよ研究は

昨年5月にストレス過多(仕事面ではなく、主にプライベート)で倒れてしまい、久しぶりのウツを発症し、休職中にかなり葛藤しましたが、きちんと休まなければきちんと回復しないなと気持ちに整理がつき、秋に退職しましたが、今でも心電図の勉強など余裕があるときには個人的に進めているものがあります。

まあなぜなら私は何一つ諦めていないからです。笑

今すぐ研究職に戻る事は考えていません。

今はまず寛解にむけて心身を休める事が第一だと理解しているのと、一度全てリセットしたことにより、改めて自分のアイデンティティの中にサバイバーとして生きてきた部分の大きさを知り、また、今現在も多くの方が苦しんでいる事を認識して、自分ができる事を始めたいと思うようになったからです。

それは大人になったサバイバーの生きづらさです。

どんな事も体験しなければわからない事は多くあります。
虐待は幼少期が過ぎ去れば、また、親元など元凶から離れたら終わりと思われる事が少なくありません。

実際は危険な場所から離れて、安心してから激しいフラッシュバックなどに当事者は苦しみ出すので、ここからがまた治療の本番だったりするのです。

このタイムラグなど、なかなか体験しない限り知ることのあまりないことを色んな方に認識してもらう重要性は、二次的な被害を少なくする上でとても大切だと思っています。

相手に悪気がなくとも、当事者としては耐え難い事は多くあり、しかしながら相手に悪意が無ければ勿論責める事はできず、となると結局は人との繋がりを諦める事になってしまうからです。

回復は人との繋がりの中でしか得られないものがあります。

今私がしたいことは、この様々な
大人になったサバイバーの生きづらさの理由を多くの人に知って頂きたいという事に尽きます。

社会が成熟してゆくにつれて、今までの価値観からの脱却が起こります。

それはあらゆる分野で起きていると思います。

宗教二世、虐待サバイバー当事者の1人として出来る事をこれからも人生を楽しみながらやってゆこうと思っています😊🌷

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さちんぬ
大人になった虐待サバイバーの大変さや虐待後遺症について、また認知度向上の活動に使用させていただきます。宜しければ応援お願い致します!