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「日本美術を見る眼」 高階秀爾

海外の美術に関する本をだいぶ続けて読んだので、あらためて日本の美意識について考えたいと思いました。
近くの市立図書館に行くと、日本美術のコーナーは広くあるのですが、
「飛鳥時代の仏像」であるとか「小袖の文様」であるとか、
あるいは「北斎」「岡本太郎」のような個人の作家についてなど、
さすが自国のものは専門性が高く細分化していて、ゴンブリッジのような「これを読めば一通りわかるよ!」というものがあんがい見当たりません。
そんな中で目に留まったのがこの本。
裏表紙にあった「西洋とは違う日本独自の美学とは何か?」の一文が、自分の求めていたものにぴったり。
文庫版なので気軽に借りて帰りました。

読み始めてさっそくの5ページめ。

(前略)日本人は、「大きなもの」「力強いもの」「豊かなもの」よりも、むしろ「小さなもの」「愛らしいもの」「清浄なもの」にいっそう強く「美」を感じていたということである。このことは西欧の美意識の根となったギリシヤにおいて、「美」が「力強いもの」や「豊かなもの」と結びついていたのと、対照的であると言ってよいであろう。

(p.5 3行目~)

大野晋による、「くはし」「きよし」「うつくし」などの古語の分析を引用してからのこのくだりに、早速、そう、そう~!となりました!
そうなんよ、西洋の彫刻も絵画も、すごいって思うけど、なんというか、ちょっと苦手なんよ。裸、ばーん!とか。それが天井一面とか。男性も女性も。筋肉もかっこいいし均整美も分かるけど、完璧な身体のすっぽんぽんのダビデ像より、ミロのビーナスやサモトラケのニケみたいに腕や頭の一つも取れているほうがほっとして、美しさを感じるというか。
それは私の個人的な感覚かと思い、「西洋美術をよく分からない奴」と自分を卑下していましたが、日本列島という地域に住んできた人たちの傾向だとしたら、ほっとする(笑)。そして面白い。ちっちゃい方がいいっていう人たちは、よく考えたら面白い。

このように冒頭から共感の嵐が吹き、「視形式の東と西」「装飾性の原理」「ジャポニズムの諸問題」などと興味津々の内容が堪能できます。
どの章もおもしろかったけれど、やはり最初の章、「日本美の個性」が秀逸でした。
すごく分かりやすく客観的な記述であるのは、作者が日本美術ではなく西洋美術が専門であるからこそでしょうか。考察が基本的に別のもの(西洋美術)との比較から延べられるので、偏りなく、主観的になりすぎません。それがすごく読みやすいです。この章は、そもそもアメリカの展示会のカタログに寄せられた、英語で書かれたものだそうです。
自分の身近にあるものは客観視しづらいですが、海外の人に説明する視点からの内容がすごく腑に落ちました。
例えば、

シンメトリー、プロポーション、幾何学、黄金比、その他何にせよ、「美」を合理的な原理に還元しようとする試みは、日本人の美意識の歴史においてはついに無縁のもののようであった。「美」とはそのような対象に属する性格ではなく、あくまでそれを感ずる人の心のなかに存在するものだったからである。

(p.7 7行目~)

というような意識はいまでも根強く、美術は「感性」「心情」といったものであると多くの人日本人が思っていると思います。
例えば文科省が定める学習指導要領においても、学校教育において美術を学ぶ目的に「感性を豊かにし」「豊かな情操を養う」などの文言があります(中学校編より)。
それには共感する一方で、この言葉の持つ曖昧さが現代社会にミスマッチしていると思うこともあります。
学校現場においては「感性が豊かに育ったかどうかって、どう評価するの?」という大問題に答えがない。しかも今の学校は評価が内申点として進路に大きく影響するというのに(現場にいたことのある立場からの感想です)。
美術作品の問題点もある。私は海外の事情に詳しくないのでアーティストの萩野真樹さんのnoteで読んだのですが、自分の世界観や感性を追う作品が日本人には多く、アートフェアなどでもパッと見ただけで日本人の作品だと分かることが多いそうです。それを個性ととらえるのも一つですが、それが多くの海外の国に共感されにくいという面もある。また、技術的・表面的な美しさは優れているが、コンセプトは深くないものが多いそうで、コンセプト重視の海外市場において評価されづらい。そのような現代アート事情がそのままこの「日本美の個性」の章で書かれていたことと一致しています。

伝統は大切にする(私も大好き)。
個性は卑下することではなく、尊重する。
しかし自分の傾向や特質は客観的に理解するべき。
その上で、自分自身の目標に対する問題解決に向けて努力すべき。
と、心にメモするだけでは忘れるので、ここに書きます。


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