宇宙船の運転
おはようございます。
最近なんども頭をよぎることを書きます。
以前、宇宙船を操縦するのには、目的地を決めたらそこに焦点を当て続けることで、そこに到着する、みたいなことを何かで読んだ記憶があります。
自分が宇宙船を操縦していたら、一体どこに着くんだろう?
乗組員がどんなに優秀でも、面白くても、ふざけてても、焦点を当て続けるなんて、できるかな? その旅が長かったら、座標があるようでない宇宙の中で頼れるのは船長の集中力だけ。
テレポートも、テレポートしている最中に、違うこと考えたら違う目的地に降り立ちそう。
ブレたり、寄り道したり、すぐに忘れたり、気まぐれだったり、そんな自分は宇宙船を操縦できる日はくるのかなぁ、なんて思ったりします(笑)
そんな中で、船長が一瞬たりとも集中力を欠くことができないのなら、船長にはなれないけれど、必ず行くべきところ、行くと決めてきたところ、途中で忘れたとしても、ちゃんと着くようになっている。という確固たる信頼とか、信念があったら、集中力はなくても、ちゃんと到着できそう。
忘れても、寄り道したように見えても、違う場所に来ちゃった気がしても、全部、ずーーーーっと、ピッタリにしか行っていない、余裕はあっても完璧なルートで目的地への旅をしている気がしてならない。
大きな大きな、今、ここ、で、忘れるという体験をする目的も果たし、思ったところじゃない場所にいる気がするという体験もちゃんとできてる。目的は常に果たされ、目的地にいつもいる。そして、もっと大きな目的地にも、実はすでに着いている。随分前に着陸している。なんなら旅立っていない。
きんと雲にのってビュンビュン空を飛んだ孫悟空が、始終お釈迦さまの手のひらの中だったように、わたしたちは遊園地の4Dアトラクションの乗り物に乗って、宇宙を旅している体験している=『毎日を過ごしている』という甘い夢を見ている気がする。そして、この遊びが本当に大好き。だっていろんなことが思い通りにならないなんて、面白いし、可能性が広がりすぎる!
愛と光の反対を体験するのは、寒い国に行った後、暖かい国で身体中をゆるめて心も体もゆったりすることは、最初からずっと暖かいよりもありがたく感じるのに似てるかな?
今の家を改装する前は、足元が寒くて寒くて、ヒーターをつけても暖かくなるのは上半身だけ。そんな時の夜寝る前の熱い風呂は、1日のハイライト。まさに極楽だった。
夢叶って、床暖房に改装。今は足元から暖かくて、毎瞬が極楽。
でも、夜寝る前の風呂は以前のように、仕事の後のビールのような、「喉の渇きを癒す効果」はなくなった。
宇宙船の話に戻るけれど、以前、私は毎朝起きた時、「昨日のつづき」の物理次元に戻っていることに、ひどく安堵感を覚える日々を送っていた。
夢の中で宇宙船に乗っても、違う次元に行っても、怖い未来を体験し、そうならないように、と分厚いデカい読めない本と宿題をだされて途方に暮れても、朝になって目を覚ますと、ことりがちゅんちゅん。昨日と同じくお日様が昇ってくれている。
平穏だ。
そして、この肉体は意識という宇宙船のイカリ⚓️の役割をはたしてくれているのかな、と思った。
肉体という器は混沌から私を救ってくれた。
肉体という物質の中にとどまることによって、一気にではなく、一つずつ体験出来ることの良さがある。
それは、全ての最高の食材と最高のお料理が一人につき、大きな山一つ分くらいあるけれど、肉体だと、せいぜい一食で1皿〜12皿食するのが限界。だとすると、常に有り余る新鮮な山一つのお料理を消費するのに時間を使って少しずつ、一生かけて味わう。
って感じで、私たちは毎日、愛という山から、愛を一つずつ順番に味わってているんだとおもう。
愛は全部だから、何億生やってもまた新しい体験ができるね。
結論: 宇宙船は自動操縦。ココがゴールであり、全ての始まり。目的地から外れることはないが、外れて旅してると思うことは出来る。
画像を見ていられるってことはさ、スマホがあるってこと。そんでスマホを手に入れる動画を見て、スマホ欲し⭐︎ってなってるって感じだな。
さぁ、今日は何をして遊ぼう?
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