#95 盛大にお世話になってもいいのかもしれないと思った帰省 〜拝啓1年前のわたしへ
今日は1年前の自分へ
自分が完璧でいるよりも、周りに助けてもらうことのよさ。
年末年始、実家巡りをしている。年末4泊主人の実家にお邪魔していて、横浜のうちの実家に移動してきた。
岐阜の義実家でも、うちの実家でも、わたしの出番がググッと減ったのを感じる。
それでなくても、家事がダメダメで動きの悪いわたしは機動力がないのだけれど、子どもをみる、という点でもわたしの出番がずいぶん減ったなと思った。
姪っ子ちゃんに遊んでもらっていたり、義理のお姉さんに面倒を見てもらっていたり、お母さんに見てもらっていたり、じいじにお風呂に入れてもらったり、主人がカードゲームやボードゲームを一緒にやってくれていたり。
もちろん寝る時は、とか、抱っこはママ!みたいなこともあるけれど、5歳児と2歳児はけっこう落ち着いてきているのを感じる。
同時に、ちょっと、「あ、ここ、わたしが間を埋めた方がいいのかな」とよぎるのだけれど、「ま、いっか。相手してもらっているし、相手してもらおう」と思うことも多かった。
もう少し前は、ちゃんと相手している母親をしていないと母親失格なのでは・・・みたいな風にも思ったものだけれど、去年後半のパパ入院中、実家に居候しつつ、娘たちを見てもらっている中で仕事をしていた流れもあって、わたしが必ず近くにいなくてはいけない!ということはないのかもしれない。と思うようになった。
特に、今回も義実家でもたくさん可愛がってもらって、娘たちがキラキラ喜んでいる姿も、同時に相手してくださっているみなさんも嬉しそうにしてくださっている姿も目に入っていて、こうやって多様な人にみてもらえることは、子どもたちにとっても刺激があり経験になりおもしろい。関わってくれる人にとっても普段と違った刺激なり癒やしになるのかもしれないと思った。
確かに、わたしも姪っ子ちゃん、甥っ子ちゃんが小さい時は義実家で相手させてもらっていたのだけれど、けっこう楽しく過ごさせてもらっていたし、血が繋がっていないけれど、リアル姪っ子ちゃん甥っ子ちゃんの気持ちで居させてもらっている。
迷惑をかける、というと、相手にとってもマイナスが多い、みたいな印象を持っていたけれど、こういう迷惑はかけていってもいいのではないかと思った。
世話を焼くというのは面倒なことだと考えていたけれど、日常への張り合いだとか、変化だとか、ご褒美のようなニュアンスも持っているのかもしれないなと思いました。
そう思うと、人は支え合っていきている、というのが、迷惑もかけてナンボみたいなニュアンスもあるのかと思えて。だとしたら、一人で無駄に踏ん張ることで子どもたちや相手がたの機会を奪っている可能性もあると思うと、適度に迷惑をかけていきたいなと思ったのでした。
とはいえ、お世話になっている皆さま、限度が過ぎるぞ!と思ったら、教えてくださいな^^;
1年前はかなり肩肘張っていた気がするし、数年後はもっと肩の力が抜けていそうな気もする。頼れるようになることは、情けないことのようにも感じていたけれど、それができるようになっていくことが大人の成長でもあるのかもしれないと思ったのでした。