表現を受け取る
ライブ配信で朗読をしている友人がいて、ときどき聴きに行くのだけれど、言葉で映像を描くことの美しさに改めて感動する。
文章を読むことでイメージの世界に旅立つことは、幼いころから本の虫だった私にとっては割と容易なことで、世界にどっぷりつかってしまうと、次の日のスケジュールがどうであろうと、目の前に緊急のタスクがあろうと、なかなか戻って来られないくらいだ。(大人としてどうなのか、ということは置いておいて・笑)
文字で書かれた作品だけでなく、映画などの映像作品も好きだ。こちらの想像力を働かせる間もなく、ここではない世界に瞬間移動する。ただ、自分のイメージであれば自分好みに世界を微調整できるけれど、映像はイメージが出来上がっているので、既に文字で読んでしまっている作品だと、ギャップで混乱することもある。
朗読の話に戻ろう。朗読というものにはほとんど触れたことがなかったのだけれど、オーディブルを聴くようになって興味が出てきた。ラジオドラマのような声劇に似ているように思うかもしれないけれど、台詞にあたる話し言葉は作品によって多かったり少なかったり、基本的にはいわゆる地の文の部分がほとんどだから、全く違ったものだ。
人の声で語られる物語を自分の頭の中でイメージに変換する作業は、慣れるまで少し勝手がわからなくて戸惑った。運転しながらでも文章が読めるので便利だなと思ったけれど、声という色が乗った文章は、文字で読んだ文章とは少し違う。声質や読み方の癖は、映像がない分ダイレクトに影響される気がした。だからこの人の朗読なら聴きたい!という好みもはっきり感じた。
友人が、すごいのだ。もともと演劇をかじっていた人なのだけれど、それよりなにより、声に乗せる色が鮮やかなのだ。プロではないので本人はまだまだ、もっとうまくなりたい、と言っているけれども、そういうテクニック的な部分ではなく、その色が私の波長に合っているのだと思う。心が震える。音楽を聴いているようだ。まさに声で映像を描いているのだ。
私はこのとおり、垂れ流しのような文章が少しかける程度で、全くもって表現者の素質はない。ただ、表現を受け取ることは、少し得意なような気がする。そしてそのことが私の人生にどれだけ彩りを与えてくれているのだろうと改めて自覚して、泣けてきた。これは間違いなくギフトだ。人のことをうらやんでばかりいないで、こんな素晴らしいギフトをもらって生まれてきたことを、そしてそれを育てることができたことを、自覚して喜ばなければと思う。
私が見ている世界は、たぶん、かなり色鮮やかなんだと思う。