『虎に翼』と『あのこは貴族』
本日『虎に翼』という朝ドラが終わったので、これまで書かずにため込んでいたことをここに書こうと思います。
『虎に翼』
本当に素晴らしいドラマでした。
自分にとって、朝ドラとは「おもろくないな」と一度でも思ってしまうと見なくなってしまうコンテンツであります。
そもそも半年というめっちゃ長い期間に、継続して同じコンテンツをみるとかの体力がない。
『あまちゃん』と『ひよっこ』だけは見た。
「継続してみる」とかを考えないでいいぐらいのゆるい感じだったから。
だけど、『虎に翼』は、ぜんぜんゆるくなかった。岡部たかしぐらいしかゆるい人がいなかった。岡部たかしが救いだった。岡部たかし最高。
岡部たかし以外はゆるくなかったのに、全部見ちゃったのはなぜ?
ワタシが完走できた朝ドラ『あまちゃん』『ひよっこ』『虎に翼』。
この3作品は、「おもろくない」ターンが一回もなかった。
これは、めちゃくちゃすごいこと。
この、飽きっぽいワタクシが、全部朝ドラ見るなんてなかなかないですからねぇ。
さて。
『虎に翼』のテーマは、法曹界における女性の進出の話であり、ひいては女性(および社会的マイノリティ)の社会に対する対峙の仕方、の話。だと理解しました。
このドラマでは”雨垂れ石を穿つ”という言葉で表現されている「女性の社会進出」。
「女性の社会進出」という言葉自体、もはや死語になっている令和の今、自分が「雨垂れの一滴」であるなんて思わないよね?という時代に生きているワタシ。
そのワタシにとって、この物語はなんなのだろうな、ということは、この半年、いろいろと考えるところがありました。
『虎に翼』のヒロインのモデルである、法曹界における女性パイオニアである三淵嘉子氏は、外国で生まれ帰国子女としてトーキョーで特別な教育を受け、裕福な家庭のバックアップを受けながら法を学ぶ環境がそこにあった人です。
朝ドラの中では、主人公のめちゃくちゃ恵まれた環境を凌駕する、貴族の桜川涼子様という人物が出てくるので、主人公の恵まれ具合があまり目立たないけど、そもそもこの主人公だって、十分「貴族」である。
あの時代に、女性が大学に行くことがどれだけ特権的なことだったのか。
そんなことを考えるにつけ、「学ぶこと」の特権性を考えてしまう。
女性どころか、男性にとっても、「学ぶこと」ができることは、特権であった。お金持ちしか「学ぶこと」が出来なかった。
これ、女性がどうのこうのという問題ではないんだよね。女性だろうが男性だろうが、お金持ちしか「学ぶこと」は許されなかった。
あれから100年経った今でも「学ぶこと」は特権だよなぁ、と思うことが多すぎる。
令和の今でも、東京大学の学生の7割は親の年収1000万円超え。
これを特権と言わず何と言おうか。
さて。
『虎に翼』で、最後まで、親族姻族構わず家族全員の幸せを自分の生きがいとする「第二の主人公」である花江ちゃんという人物が出てきます。
家族全員の幸せのために生きる花江ちゃん。
この世は、そういう人のほうが大半なんだよな。と思う。女性だけじゃなく。男女関係なく。
世のため人のための仕事をなすべき、という使命感を持って学び世の中を変えていく人もいれば、家族一人一人の幸せを第一に考えて、今日という一日をよりよく生きる方法を考える人もいる。
どちらが偉い、という話ではない。
そういう事を気づかされたドラマでした。
さて。
めちゃくちゃ話が変わります。
山内マリコ氏の『あのこは貴族』という小説がありまして。
どういう内容かというと。
「トーキョー出身のお金持ちのお嬢さま」と、「地方のド田舎出身の公立高校から必死で勉強してトーキョーの大学に行った女子」の対比を中心に描いた物語です。
『あのこは貴族』は、平成の話なので、『虎に翼』の時代から100年とはいかんけど相当は経ている筈なのに、全く同じ感想を持ってしまったんですよね。
「生まれついた家に恵まれてる人はいいよな」という。ルサンチマン的な何か。もっと嫌な言い方をすれば「実家が太くていいよな」という。
『虎に翼』で言えば、山田よねが感じたであろう「恵まれている人間には絶対にわからないことがある」という事実の重さ、というかなんというか。
実際にはあの時代には存在するはずもない、
「学ぶ特権を持たない身分」であり、なおかつ「女性である」
山田よねさんが報われる物語を、令和のワタシたちは欲しがっているのかもしれない。
だけど、残念ながら、山田よねさんは、実在しない。
だから、報われるはずもない。存在しないんだから。
そういう認識からしか始まらないのではないかと思いました。『虎に翼』をみた感想として。