いつのひかもういちどねむる(つやちゃん『スピード・バイブス・パンチライン』刊行記念トークショーに寄せて)
こんにちは。
残暑厳しい折、いかがお過ごしでしょうか。
皆さまのお住まいの地域では、台風の被害は大丈夫でしたか。
さて、先日情報が解禁されましたように、10/1(火)に三鷹SCOOLにてイベントに呼んでいただきました。
お笑い批評は可能か? しゃべることと書くこと、その拮抗について
『スピード・バイブス・パンチライン』刊行記念トークショー
つやちゃん×西村紗知×佐々木敦
佐々木敦さんとつやちゃんさんと、お話させていただきます。
ぜひぜひ、遊びに来てください。
それで、この宣伝もかねて、そして何より、たびたびつやちゃんさんから、お笑い観がぜんぜん違うね、と言われておりまして、しかもどう違うのかっていうのが、見てきたものの違いくらいにしか把握されていない気もしています。なので、その辺事前に明らかにできればしておきたいのと、あとわたし自身の考えをまとめるために、以下にちょっとした文章をしたためました。
本イベントは、この度のつやちゃんさんの新刊『スピード・バイブス・パンチライン』の刊行イベントですので、基本的にはこちらをベースにしてお話していくわけですが、書評というか、連想していろいろ考えたものとして、以下のものを読んでいただければと思います(おそらく、すでに『スピード・バイブス・パンチライン』を読んだ方なら、以下の文章でわたしがどの辺の記述についてコメントしているのか、お分かりになるものと思います)。「お笑い批評は可能か?」というえらい大仰な文言がイベントに付されております。わたしなんかがそれ何を喋ることあるかな、と思いますし、その対象に批評が可能かどうかなんてそもそも一度も考えたことがありません。気が付いたら書いています。およそ批評への批評は、実際に書いてしまってから考えればいいだけのことです。書きもしないうちからうだうだ言ってもしょうがない気がします。書けてしまったら、もういろいろと諦めます。すみませんでした、って。これは先に言っておきます。
そして、以下にしたためた文章につきましても、書こうと思って書いたものではありません。わたしは普段仕事じゃないと批評は書かないと心に決めていますが、以下の文章は別に書かなくてもよかったものです。つやちゃんさんの新刊を読んでいたら、わたしのなかに蓄積している記憶のなか、もうすでに解散したりだとか引退したりだとかしている、その当時の彼らお笑い芸人さんたちの語りが、わたしをして勝手に書かせたものだ、とでも言っておきたいくらいです(それは、彼らのために書いている、というのでもありません。残念ながら批評対象のために書いたことは一度もありません)。
とはいえ例によってただの思い出話というか、ダラダラ書いてとりとめもないものですので、お布団でゴロゴロしながら読んでいただけますと幸いです。
まだご購入されてない方はぜひ。
あと、佐々木さんのも、ぜひ。
今度発売される『小説トリッパー』に『成熟の喪失』の書評を寄稿しておりますので、こちらもぜひ。
わたしのも。
0.
疲れていたり、時間がなかったり、とにもかくにも成果をかたちにしなくてはならない、あまりよろしくないコンディションが長く続いている人間がやりがちな言語化というのはあります。変に図式的で、概念操作でつるつる移行する感じに話が進んで、なんだか借り物みたいな話がつらつら続くんです。たまにそういう人おるんです。わたしにもそういうことがあります。自分がする話に対して、なぜかそれを話したり書いたりしている自分自身が真っ先によそよそしい存在になっていくような。それは、ざらざらとした現実の手触りを思い出せないまま生きている、っていうんかな。嫌なんですよねえ、つらいんですよねえ、そういうの。見てるのも、自分がそうなるのも。
それは、妙な言い方ですが「ねむり」を失った言葉たちです。延々と続く真昼が、真夜中を消し去っていくような――ある意味で、いや、まったく科学的な言い方じゃないのはわかってるんですけれども、私はもう10代の後半らへんからずっと「ねむり」の恩恵に与っていない感覚があります。ざらざらとした現実の手触りに、横たわっていない。ざらざら。不眠症とかそういう話じゃなくて。陰影の話、というのか。気が張っている、と言ってみたほうがまだ適切な表現かもしれません。つるつる。
この年になると、昔のことをなんとなく思いだしたりします。小学校の同級生に後藤君って子がおったんですけど、どこのクラスにも一人はおるような、ぱっぱらぱーのお調子もんで、確か転校生だったと思います。当時、なんだったかな、午前中の長休憩に、わたし譜面つくっとったんです。エレクトーンの。ヤマハの宿題ですよね。あんまり小学校の休憩中にやったらダメな気がしますけどね、いろいろと間に合ってなかったのでしょう。SONYのMDプレーヤー持ち込みましてね、聞くんです、楽譜に起こすんです。村田陽一の音源だったと思います。当時は、まだいくらかジャズへの志向があったんすねえ。トロンボーン奏者の村田陽一と言えば、椎名林檎のツアーにも参加していましたよね。……まあそんなことはどうでもいいです。
そうやって作業に打ち込むわたしを見て、後藤君が「にっつぁんは、切れかけのガットみたいだ」って言いましてね。アホな男子のくせに真食ったこといわんといて、って。そんなん言われたら、そりゃ否応なしに忘れられんわけでして。
後藤君元気でしょうか。まぶたを閉じるとあくる日の光景が浮かび上がります。お昼休み、給食で出たカットケーキの紙製のケース、みんなのを集めて、後藤君、こう、手に全部重ねてはめて、ひとりで、誰に対してやるわけでもなく、ドゥクシ、って何かやってましたね。あれ、なんだったんですか。わたしヘラヘラ笑うことしかできませんでした。
さて、目を開けます。――わたしいつかこのガット切れるんかね、って、たまに思いだすんです。あるいは、これら全部のガットが切れたらやっと人間が変わるんだろうかって。
でも、ガットの張力を、きりきり上げていく以外のことを、いまだに知らない気がしますね。いい年して恥ずかしい。
ざらざらとした現実の手触り、「ねむり」状態、切れかけのガット。
だいたい、こういう感じで考えごとをしています。現代音楽だろうと、お笑いだろうと、何でもいっつもいっつもおんなじ話。
つまり、ざらざらとした現実の手触りは、なんとか忘れんほうがいいし、「ねむり」はなくなるなんてことないだろうし、ガットは切れないほうがいい、って。だいたいいつもそういう調子なんです。
1.
「ねむり」ってのは不可抗力です。結局のところ言い換えれば「自然」です。自分の力では導けないおしまいの領域です。草のしとねの暗がりです。「ねむり」状態ではない自分のうちで何が起こっているかといいますと、こう、複数の「意志」が身体のなかをぷすぷす刺して、混線して絡まったりして、手に負えないんです。ああしよう、こうせんと、あれもできん、これもまだ、ってなっちゃって。真昼です。その真昼は透明だし、一応公共的です。
「ガット」は、つまり「意志」ってことです。関係ないけど、「茎(ステム)」で言ったら「クレマチス」ですね、たぶん。「意志」はわたしを未来の時間へ運びます。より一層、真昼であるような場所へ、上へ。「技術」は、「意志」が手を、身体を通って、今度は身体の方を操作する側に回ります。「技術」は「自然」を手にかけます。あるいは鍬が大地を耕しますように。
不可抗力って、「ねむり」って、「技術」/技芸/die Kunstで作れるのでしょうか。作為的であり得るもんなんでしょうか。わたしはこのことをずっと気にして生きています。
作為的ではないものなどもうだいぶ少ない、というタイプのペシミズムは、よう見かけるような気がします。そして、この度のつやちゃんの新刊につきましても、基本的なこの本全体のバイブスとしては、その類いに近いのかな、というのが第一印象としてあります。というのも、つやちゃんのこの度の新刊も「しゃべりのゲーム化」のお話です。レトリックと発話上の効果のお話。これにより勝ち上がっていく人々のお話。ただ、別にこのことの弊害とか、利点とか、そういう話には踏み込んでいないように思います(一応「インターリュード」のところに「絶望」というキーワードが出てきますし、オルタナティブがあった方がいい、というスタンスではあるでしょうけれども)。なので、別にペシミスティックというのではありません。
あと、特徴的なのはアナロジー的把握という手法の採用ですね。音楽と言語の関係。漫才のラップミュージック化について。ラップミュージックが憧れるところの漫才について。アナロジーは基本的に、アナロジーの把握のところでストップします。こういう、パラレル・シンキングというか、アナロジカル・クリティークでも言うのでしょうか、これはどんだけたくさんの出来事、現象、作品、契機なんかを串刺しにできるか、という技巧なのだと思っています。社会における、何かしらの「徴候」をつかまえるひとつの方法なんだと思います。なので、わあ、串刺しにできた!という驚きと、どういう「徴候」の周りにこの話があるのかしら、という読み手の思索と、その二つを呼び起こせるかが勝負なんだとわたしは勝手に思っております。
話をわたしの方に戻すと、作為的ならざるもの、については必ずしもペシミズムの気分を纏うとは限りません。例えば、「かわいいは作れる」という、もうだいぶ前の標語ですが、これは一応ポジティブな風体を装っています。ですが、この標語に従って動く人間にとっては、それなりにプレッシャーを感じるのでしょうけれども。「作れる」のは、実のところマテリアールな部分がそんなに多くないから、ということなのかもしれません。すなわち、「かわいい」は間主観的だし、身体で生じることではあっても一応印象の領域にあるから「作れる」んでしょう、というように。重要なのは、これが、すべて「作れる」わけじゃないでしょうけど、「作れる」余地があるってことだし、そういう作為性の領域は拡張すべき、って思想であることでしょう。早い話が、努力しましょう、という。ガットの巻き方ですね。
わたし、ちょっと思ったことがあります。美容サロンを経営している家庭から(他にも事業をされているそうですが)、自らも積極的に美容に関する施術を受け、ファンに「分析」という武器を配って、……というふうに、作為性の世界像へとまっしぐらに突き進み、本当に素晴らしい成果を収めたお笑い芸人が生まれた、というのはどうも偶然ではないのではなかろうか、なんて(令和ロマンの高比良くるまさん、ですね)。
作為性の領域を拡張すべきという思想とわたしが名付けるものは、この本で言えば「ゲーム化」、そして、スピード、バイブス、パンチラインという指標的把握(わたしは指標というよりパラメーターだと思ったんですけど。漫才言語がトータルセリエールになっていくような。言語の音楽化だ、と)、この二つに相当するんかな、と思います。そして、その二つは当代随一の思想であり、この本はその思想に随伴した仕事なんだと理解しました。
アナロジカル・クリティークは、作為性の領域拡張という思想による下支えがないとも言いきれない雰囲気がします。ただ進歩的な芸術史観、とも違うのですよね。「ゲーム化」は進展すべき、と主張されているわけじゃないと思いますので。やっぱり、『スピード・バイブス・パンチライン』は、「今」Moderneという時間形態に対するこだわりの強さを感じられる仕事だと思います。扱うなら、絶対的に「今」でなくてはならない。その絶対的な「今」とは、諸ジャンルの交錯地点にある、と。諸ジャンルの交錯地点に目を向けよ、そこに「今」があるのだ、と。美容・ファッションに造形の深い著者が、こういう仕事を手掛けたというのは、偶然じゃない気がします。まさに、そういうふうな理論の成り立ちにおいて。
けど、繰り返しですし、わたしの方の問題意識で恐縮ですが、「ねむり」って作れるんでしょうか。作為性の領域は拡張すべき、って思想に、どこかで歯止めをかけるような思想もまた、必要ではないでしょうか。人間って、主観だし、身体でしょう。生まれてきた事実のままでしょう。社会に媒介されたとて、たったひとり、ってことでしょう。
2.
お笑いは、今現在どういうふうに見られているのでしょうか。「ゲーム」とか、コミュニケーションスキルとしての「ハック」を人々に提供しうるものであるとか(お笑いサークル出身者は就職に有利だ、とか聞いたことがあります)、近年のM-1グランプリをはじめとする賞レースを中心に作り上げられた「物語性」であるとか、お笑い芸人同士の「関係性」であるとか。今現在支配的な規範というか消費のための枠組みを並べると、そういう感じでしょうか。一時期よりだいぶ落ち着いたような気がしますし(特に証拠はないです)、正直よくわからないんですよね。
わたしの記憶では、お笑いって、良いものでも、あるいは反対に悪いものでも、なにかアツいものでも、あるいは何か救いでも、そういう――積極的なものdas Positivesではなかったです(「救い」ってのは随分デリケートな言葉です。「あなたにとって救いなんでしょ」とか気軽に言うもんじゃありません)。この本でも確かに、音響論的、記号的、表象論的アプローチなどを通じ、そういった消費のための枠組みとは、距離を置こうとしているように見えます。だから、M-1グランプリに出場した漫才師についての言及は多くあっても、あの「人生、変えてくれ。」といったような物語性とはひとまずあまり関係せずにいられます。その一方で、この本は、上方漫才など存在しなかったかのような、没歴史的な世界像にもあります。
お笑いというと、代理表象的なもの(レペゼン)、ではあったような気がしています。「ごきげん!ブランニュ」とかね。火曜深夜は「ごきブラ」でしたよ。なにとはなしに、ずっと下世話な番組でしたね。ああいうおっちゃんたちいっぱいおるんだろうな、と。おっちゃんがいっぱいいるから、だから何だという話ではあります。人間は存在しますから。代理表象の作用について、どうこう言うのは可能であるにせよ、現に存在する人間に、どうもこうも言えません。
「ゲーム化」というかたちで、素人もまた影響を受けられるようなものでもなかった気はしますが、その辺はものによりけりなのでしょう。わたしはいつも埒外だったので、よくわかりません。なんでしょうね。こういうふうに経験するほかなかった、という確信はあるけれど、同時に、やっぱりこういうふうに経験するものではないだろう、というより強い確信もある、そういう本源的な疎外経験ってのは、メディアを通じてよく経験してきたと思います。
というより、そういう「指標」化を振り切った場所で、輝かしく活躍しているのが、わたしの知っているお笑い芸人だったと思います。わたしは、「スピード・バイブス・パンチライン」という本のタイトルをみて、最初に島田紳助という固有名詞を思い浮かべました(し、同時にまさかこの筆者がこの固有名詞を扱っているわけはなかろう、と強い確信がありました。圧倒的な固有名詞は時にアナロジーを退けます)。それは、この人がその3つの指標をすべて叶えていた、というより、それら3つの指標をもはや撒いて後にしてしまっていて、それでもたしかに、その3つの指標が支配的になったお笑い界、というふうな見立てで考えるなら、絶対に無視できない位置にいるだろう、とも思ったからです。他ならぬ、M-1グランプリの発起人でありますし。
わたしは、「クイズ!紳助くん」で喋る島田紳助が、もはや何を言っているのか聞き取れないことがあるほど早口だったのを鮮明に記憶しています。ローカル番組特有の簡素な演出もあって、テロップとか最低限だったから、そのあまりに早い喋りに、関西弁ネイティブじゃないからかリスニングが追い付きませんでした。ああ、「行列のできる法律相談所」のあれは、よそ行きの発話なのか、と。でも、わたしにとってお笑いのリアリティって、「クイズ!紳助くん」の島田紳助のことなんですよね(好き嫌いは別よ)。スピードとかバイブスとかパンチラインとかが指標として機能するのは、それがよそ行きの発話である限りにおいてではなかろうか、って思うんです。それがまさに「ゲーム」であるなら、どこか、主体的に当人たちが作り上げたもの、というより、設えられた人工的なものなのではなかろうか、とも思います。(それから、若い頃のウーマンラッシュアワーが「行列」で紹介されていたのを、ぼんやり覚えています。B&B、ツービート、紳助・竜介など、いわゆる80年代の漫才ブームの再来を期待するまなざし、というのを当時彼らは受けていたのではなかろうか、なんて今になって思うのですが、これは憶測に過ぎませんね。)
しかしもはや、誰か一人を明確にゲームマスターとして見立て、その人の才能へと帰納させるようにして、今現在の状況を把握していく、というやり方自体がもう無効であるなら、個別具体的な「ゲーム」について、発生するごとに粛々と記述していくしかないのかもしれません。その辺はある程度承服しました。「ゲーム」とは、反歴史的という意味であります。没来歴的遂行、なのです。また、誰も責任者にならなくて済む構造のことではなかろうかと。しかしながら同時に、誰も傷つかなくて済むかもしれない、という集団的な希望的観測の別名でもあるでしょうから。
「クイズ!紳助くん」で思い出しました。この番組では、若手芸人たちで構成される「なにわ突撃隊」が体当たりでロケに行ってあやうく怪我をしそうになったり、スタジオでトークに参加して島田紳助にバシバシ詰められていたりしましたが、すゑひろがりずの南條さんはなにわ突撃隊出身なんだそうです。人に歴史ありですね。
すゑひろがりずって、不思議な魅力がありますよね。それこそ、何も考えずに、ぱっと見た感じだと普通のおっちゃんに見えるんですけれど……ゲーム実況とか、あと最近だと赤坂サイファーに参加していましたし、そういう「若者」向けのコンテンツがばっちりはまりますよね。おっちゃん、ということにかけてはどうも内容を欠いたinhaltslos存在に見えます。生々しさがない、というか。
南條さんというと、わたし、スーパーオートバックス大宮バイパス店がやっている「お笑いバックスちゃんねる」のシャッフルトークの神回は、GAGの福井さんとやってたやつだと思います。
M-1グランプリ2019のファイナリストとなり、YouTubeも好調な南條に対し、フリップとペンを差し出し、「YouTuberから芸人に戻す!」と息巻く福井だったが……という内容です。
皆さんのうちのどれだけの人がGAGのお笑いに関心があるのかわかりません。ただ、わたしはたまに考えてしまいます、福井俊太郎のお笑いは「アツい」のだろうか、とか。センスで真っ向勝負をかけようとする、そういう暑苦しい大阪芸人らしさ、とでもいうのが、どうも彼の中でスピリットとして息づいているらしい一方で、同時に「イジり」の対象として客観化されているような、どちらでとっていいのか、わたしは正直よくわからないときがあります。両面なのかもしれません。GAGのコントのコンセプトである「ダサ坊」という、青少年らしいピュアさが現実に対し空回りしてしまう展開というのも、「アツさ」にまつわるちょっとしたカタストロフではあるでしょう。でも、両面であるというのは脊髄反射的には笑えないんです。じわじわくる笑い、というか。ちょっと悲しいし。でも、そういうお笑いは魅力的だなと思います。
ちょっと笑いにくい、とか、両面的、ってのは、お笑いにおけるリアリティだとわたしは思います。このトークの終盤で言い放つ「お前は金が入りだしてから、先のことばっか考えるようになってんねん!」(33:57)というところ、わたしはたいへん心が動いてしまうわけですが、たぶん「マジ」なんだろうと。お笑いの技術とか、もはや関係ないところから出てくる言葉なんじゃないかって。そう信じたくなるようなリアリティがあるんですよね。
はっきりと申し上げておきますが、こういうのはパンチラインとは言わないんです。パンチラインというのは広告の言語でしょう。福井さんのこういう言葉は、すごく状況依存的だし、属人的だし、まさにこの関係性の中で息づく言葉だし、生々しすぎて、切り取って取り出しようがないから。だから、ふっ、と消えちゃう感じがする。同じ言葉を繰り返すことはできるにせよ、誰にも再現できない。広告として、何か商品に定着させることのできない言葉です。でもそういう言葉って、まだまだどこかにあるとわたしは思っています。
これは声を大にして言いたいことですが、思わず信じたくなるリアリティって、これはこの人たちじゃなきゃ経験できないものだろうなあ、という感触とともにあるんだと思うんですよね。その点、商業的な成功を収めつつある仲間に対し、苦楽を共にした仲間の口から、どういう言葉が咄嗟に出てくるかなんて、お笑いを見ているだけのわたしのような人間には、わからないんですよね。自分で経験しようがないから、リアリティとして胸を打つっていう。それはお笑い以外でもあることだと思うんですけどね。
そういえば昔、ザ・パンチがM-1の決勝進出を決めたときに、カリカがトークで「売れないように、売れないようにしてきたのに」ってこぼしてたな、って記憶があるんですが、探してみたらありました。どなたかが上げてらっしゃるんですね。非公式ですけれど。
どうしてこういう言葉に、わたしの心は動くのか。思わずリアリティとして受け止めたくなるのか。それは、「今(様)」Moderneと「今(まさにこの時)」Jetztzeitとがせめぎ合うのを、わたしが見ているからなんだと思います。
「先のことばっか」と思わず言ってしまった時、それは仲間のうちにModerneを発見した時です。未来へ、上へ、真昼の方へ。こういう場へ引き寄せられつつある人間は、案外暗い顔をしているものかもしれません。Moderneそのものは真昼でも、これが懐胎した当人は、それでもやはりちょっと暗い相貌です(「茎(ステム)」だって変に暗い曲です)。Jetztzeitは、自分ひとりで作れるような何かではありません。ここでの場合、仲間のうちにModerneを発見した、まさにその瞬間がJetztzeitなんです。フリップとペンが、それまではただのフリップとペンだったのに、Jetztzeitを証し立てるためのものに変わったんです。
「売れないように、売れないようにしてきたのに」の場合も同様です。Moderneは「様式」とか「流行り」のことに過ぎない、と見くびっていたむきがあったために、Moderneに復讐される、まさにその瞬間がJetztzeitなんです。Moderneは、それであると見いだされ、もうそうだということに一度なったら、誰しもが元へ引き返せなくなるような、そういうものです。彼らは「様式」とか「流行り」として、掃いて捨てられたり、復活させられたりするようなもののひとつになってしまったかもしれないが、少なくとも自分たちにとっては、彼らと我らの存在は不可逆的なものだったのに、と気付いたらその瞬間はJetztzeitなのです。
Moderneは「今を盛り」ですが、Jetztzeitは「手遅れ」です。同じ空間を生きていても、同じ時間を生きているとは限らないのであります。こういう「時間」のズレというのが、それぞれの人生をかたちづくっていくものなのかもしれません。
こういうよくわからないことをわたしはひとりで考えています。Moderneについて書かせたらつやちゃんという文筆家の右に出る人はいません。本当にそう思います。だけどわたしは、いつまでもJetztzeitについてばっかり考えてしまう人間です。自分が今こうしてやっていることについてバカらしいという感触を拭いされないまま、己のなかの切れかけのガットが時代を絡めとろうものなら、それがわたしの批評です。
3.
お笑い。なにか、どうしようもなくって、でもそういうふうである以外にはありえなかったようなもので、それだからなんとも言えず現状追認的でしかなく、かといって「無意味」と言い切ってしまったらかえって「意味」があるっぽくなってしまうような、そういう、くねくねして、つるつるして、ふわふわしている、なにかだった気がします。再現性とか、継承可能とか、もちろん芸事ですから、技術的に、専門的にはそうなんでしょうけれども、そういう要素は本来目的じゃないでしょう。なにを目的と据えるかわかんなくなっちゃうくらい、なものを目的にし続けるっていう、なんだかよくわからないことなんじゃなかったでしょうか。
これもだいぶ前ですけど、「アキナのアキナいチャンネル」だと、「難波千日前」編とでもいうのか、そういうシリーズがありまして。わたしはそれが好きでした。(#07まであります。)
長年アキナと仕事の交流がある、演出・津野充が、劇団「柳川」のために「ペンコ・ニーニー・ケンパ」という戯曲を書いていたそうでして、この戯曲をお稽古するために、アキナの二人と、マネージャー、作家とで、オーディションから取り組む、という内容です。
あんまり、パッケージ化されたの好きじゃないみたいです。見かけだけでも、ワークインプログレスに見えてしまうようなもののほうが、趣味みたいです。
でも最近じゃ、ネットニュースとの親和性の高い人が売れてるってことなのでしょうか(本人の望むと望まざるとに関わらず)。「パンチライン」ってことかしら。最初からネットニュースになるべくして(そうなってしまうのを想定して)喋ってるな、と思うと、この人は一体何に支えられて、誰に対して喋っているのか、わたしにはようわかりません。
それは第一、代理表象のあり方として不気味です。その不気味な代理表象を取り巻く人々が書き込むコメントは、有用性の奴隷となった群れのようで、インターネットの画面いっぱいを覆っています。他方、有用性の奴隷として生きる方が楽ですし人間として圧倒的に無害です。それってつまり、誰かにとって必要な存在として生きるってことです。身近な悪の多くは、実は圧倒的に無害なのです。それが誰かにとって必要な存在として生きた結果ならば。
ただ、それで言うと、今一番面白い芸人さんって、やっぱり粗品さんですよね。有用性の奴隷が生きる現実を淡々と、自分も同じ目線で一緒に生きているというか。彼がやっていることを、イジりだとか、そういうお笑いの専門用語だけで捉えるのは、そろそろ無理になってきた気がします。もうそういう場所で生きていない人に見えます。
「お前のこと誰が好きなん」ってキラーフレーズがいかにして生まれたか、わたしは知りません。だけど面白い言い回しだと思っています。有用性幻想の切断の身ぶりとして機能しているのではなかろうか、と。少なくとも、本来、圧倒的に叩いていいものを叩く、っていう芸ではないんじゃないかとも思います(そもそも、そんなのが芸として成り立つわけないです)。毒気ってのは飾りみたいなもんで、本質的にはその「お前」と「誰」の距離化じゃないのかなって。「お前」はたったひとり「お前」であって、「誰」のうちのひとりでいられると思うなよ、と。つるし上げることのヒーリング、とでもいうのか。荒療治かもしれないけど、それにしたって見てる人の溜飲を下げることだけが目的ではないんじゃないかって。主体性がなんでか希薄になって、悪どいものにみえるようなものになってしまった言葉をみて、そこにひっそりと現れていた「お前」と「誰」の想像上のつながりを、言葉と身ぶりで断つんです。
「お前のこと誰が好きなん」と発話する、あのパフォーマンスで立ち現れるのは、その芸人さんの主観じゃないと思う。彼自身の意見に独自性があるかどうかってのは、あまり重要じゃない気がする(だから、番組のコメンテーターとかになるのは、違う気がする)。でも、だからこそ面白いと思います。そこに彼自身の考えがあってしまえば、不気味な代理表象として担がれることになるでしょう。
4.
わたしがテレビを見る習慣を失ってからもう何年にもなります。この経験の喪失とともに失ったものがあります。それは脱力の方法、いや、テレビを見ることは脱力の儀礼だったようです。脱力の技術ではなくて。儀礼というのは、一旦失われると、なかなか再興しようがありません。今現在、仮に私がまたテレビを見るようになったとして、この行為がまた再びスイッチを入れる役割を担ってくれるか、自信がありません。
脱力の仕方がわからなくなった。「ねむり」状態へと誘われる仕方が。年を取ると、「抗う」技術ばっかり身についちゃって。ガットを巻く技術。お薬飲むとかなんかストレッチするとか、そうやって脱力は作れるもんなのかもしれません。ですけど、そういうのもまた、「自然」に対する操作といいますか、「抗う」技術の変種でしかないのであって、「抗う」技術を手放すことじゃないのです。わたしが言いたいのは、「抗う」技術を手放すこと、の方です。もっと、不可抗力に対して無防備に、勝手に力が抜けていく感じがなくなった。力を抜きたくないのに、勝手に抜けていく感覚。わたしの身体は、知らない誰かに、勝手にされる感覚。
何に対しても、だからさ、「技術」とかじゃなくてさ、としか思わんくなった。そういうのって、また見せかけの「自然」なんだからさ、って大抵いつも思う。
お笑いは、「抗う」技術を手放すことの、ひとつの具体的な表れじゃなかったかと。しかも模倣できないし模倣したくもない地平ではなかっただろうかと。しかしどうも、近頃では、別にお笑い以外のことでもそうですが、「抗う」技術の多種多様な変奏をみているような気がします。
でも、圧倒的なまでに「負」に居座るのを、こうでしかありえないひとつの現象として、ずっと眺めているのが好きだったような気がします。「負」っていうと、語弊があるかもしれません。例えば「遊戯」das Spielとかって言った方がまだ適切なのかもしれません。有用性、合目的性の埒外。後藤君の手にかぶさったたくさんのケーキの紙ケース。――ただそれは、給食当番が回収しに来たら、引き渡さねばならないものでもあります。
「面白い」ってのは恐れなんです。関わったらやばそうな領域なんです。技芸ってのは、かつて生活空間から一度は放逐されたもののことだと、わたしは思っとります。別にアイドルのこととかでも同じです。あんまりにも美しい人間がいると、その共同体にとって害だったりするんじゃないですか。詩や歌が、現実への認識を変えちゃったりすることだってあるんじゃないですか。それを持っているものと持っていないものとの間で、放逐されたり、絆を取り戻したり、そういうダイナミズムが展開される場が技芸なんだと思っとります(その点、M-1の1回戦沖縄大会は、こういうダイナミズムがまだ生きてる感じします。まあ、お客さんの反応がいいというだけかもしれません)。
「大衆との絆」がどうの、とか昔はよう言ってたでしょう、何かにつけて。今の時代そんなん言ったらバカにされそうですけど、それでもやっぱり、わたしなんかは今の時代に一層そういうのを考えてしまいます。技芸は本源的に故郷喪失だと思います。故郷喪失は「国家」へ向かいます。ここでは、ごく広い意味での「国家」です、と言いましょう。それは包括と切断の、支配と被支配の、絶えず、雑多な要素が格闘したり動き回ったりする場のことです。法をつくったり、従ったり、変更したりして。ひとりでも多くの人間が生き残るように、つくられた枠組みでもあるんでしょうけど。産業って言い換えちゃってもいいけど、要は操作の地平です。「国家」に直接向かいたくないなら、たまにでも生活空間と再会しなくちゃいけない。
たぶん、技芸と生活空間とが出会いっぱなしだと、わたしの「ねむり」はありません。
なぜ脱力の儀礼でありえたかっていうと、それが強制された経験だったからなんだと思います。別にお笑いの番組なんてそんなに見たかったわけでもなかったかもって。うちの母がなぜか知らんがその時間帯になるとわたしをひとりにさせてくれなかったもので、しょうことなしに見ていた気がします。次の日の学校の予習とか、せんといけんかったですけど、なかなか自分の時間ってのはとれなかったですね。
でも、自分の意志ばっかで生きるようになった今現在のわたしは、決定的に、「ねむる」方法がなくなってしまって、どうしていいのかわかりません。
5.
もっとシンプルに、考えることなくすっと昔のことを思い出してみたりして。わたし、一番好きなお笑い番組なんだった、と自分に聞きます。
たぶんですけど、「ホップ!ステップ!シャンプー!」なんです。ご存じでしょうか。たぶん、ほとんどの人が知らんか、覚えてないと思います。土曜の午前中にやってた30分番組だったか、シャンプーハットの冠番組で、関西地方の商店街を街ブラする番組なんです。
あれが、ひょっとしたら、こんなこといったら大袈裟ですけど、わたしの最後の「ねむり」だったかも。