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エッセイ : 無惨絵とヘーゲル

丸尾末広 / 花輪和一の画集『新英名二十八衆句 無惨絵』に収録されている、甘粕正彦のイラストがきっかけで、性癖(性的嗜好の意)がおかしくなった。

「ほっといたって世の中は変わる」と題されたそのイラストの中では、旧日本軍の制服に身を包み、黒マスクを身につけた男性——甘粕正彦が、虚な目をした女性——大杉栄の妻であり、甘粕事件の被害者でもある伊藤野枝の内腿に、日本刀を滑らせつつ、語りかける、その様子が描写されていた。「野枝さん あんた いい女だね(中略)おしいね 殺したくないな でも殺すんだもんね あんたみたいな女は死ぬ時どんな声を出すのかな」

このイラストのアンビバレントな美しさについては、あれから5年以上が経過した今でも、言葉に表すことができない。しかしながら、このイラストが、わたしのマゾヒスト的欲求の根源にあることは、確かである。

女性のマゾヒストは、しばしば「ジェンダー(性的役割の意)に、過剰なまでに適応した結果」として見なされることが多い。こういったイメージは、奴隷として買われた女性が、従属の過程で生じる苦痛に対し、喜びを見出していく往年の文学作品『O嬢の物語』などにより、生じたものと思われる。

つまりこれはどういうことかというと、マゾヒストというのは一般的に、女性に限らず、主体ある存在が、自らの意思で、他者に従属することは”あり得ない”ことであり、そんな”あり得ない”ことに従事している背徳感・屈辱感を、快感にしているものとして捉えられてきたということである。

しかし、わたしがこれらの価値観を受容しているか・内面化しているかというと、そうではない。わたしが自身のマゾヒズム的欲求に従って行動している時、脳裏によぎるのはヘーゲルのことだ。

ヘーゲル曰く、ふたつの精神が出会う時、どちらがどちらを「承認」させるべきかといった闘争が生じるのだという。この闘争の目的は、相手に、自身が持つ世界観を承認させること、ひいては、”存在の確証”を得ることである。この闘争が、他の一般的な闘諍と異なる点は、敗者が勝者に服従すること——勝者と敗者が、それぞれ「主人」と「奴隷」という関係性を結ぶという点にある。

敗者は勝者に服従することで、自身の命を守ることができる。勝者は、敗者という「奴隷」の存在を通じて、自身の存在の確証という何にも変え難いものを獲得できる。しかしこれは言い換えると、主人は奴隷の存在なしには、自由と自己意識を確立することができないということでもある。つまり——本質的に、「主人と奴隷」「服従と被服従」の関係に依存してるのは、むしろ、主人の方であると、ヘーゲルは結論づけた。

わたしが、誰かに従属するときに感じる喜びは、この理論に基づいていると言える。愛する人が、自分の存在を通じて、自由と自己意志を感じることができる。

最後に、この文章によってこのエッセイを締めくくらせていただきたい。カントは以下のように論じた。「何人も、理性的存在者である他者を“手段”としてはならない。」

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