2021年6月13日
・マリオカートに熱中して他のこと全部忘れられた。悔しくて練習してできるようになって、楽しいよね。そういう感覚が戻ってきて嬉しい。
・もう何年も変な二重になっていたところが少し改善している。噛み合わせなのか、コンタクト変えたおかげなのか、複合的に戻ってきてて嬉しい。
・どんどん戻ってこい…!大切な気持ち。
・暑いなぁ。もう夏なのかな。散歩でめちゃくちゃ汗かく。
・大したことしてないなぁ、毎日。
・若年者の自死についての記事を読む。過去にずっと死にたい気持ちを抱えていた、今もたまに死にたくなる(死にたいくらいツライってことの自覚がある)わたしに何かできることがあるのかな。今生きてること、辛いことだらけだけど生きていて良かったと思えることを伝えることで、何かが変わるかな。伝えたい思いはここにある。どう表現していこう。
もう少し若いときは、死にたいがダイレクトに本当の気持ちだと信じていて、自分がこの世にいる意味なんてひとつもないと考えていた。(もちろん今でも、生まれる前のわたしの魂は本当は嫌だったのに神様から強制的にこの世に生まれさせられたから適応できないって風に信じてる。)
でも今は自分が信じていた死にたい消えたいの気持ちは、本当はちょっと意味が違っていて、、、死にたいほどつらい思いを抱えていることが真意で、それを誰とも共有できっこない孤独感を抱えながら生きていくのはあまりに辛すぎるってこと。
話をきいてもらったからって一時的に気を紛らすだけで、本当の意味で、根っこから解決することもスッキリすることもないんだから。そして、自力で解決する心の余裕も体力ももうないんだから。自死を選ぶ気持ちが痛いくらいわかる。自死した彼ら彼女らとわたしの違いは、その気持ちを抱えている瞬間に、実行に移したかどうか。ただそれだけ。
今生きてるわたしはどんな気持ちかというと、、この思いを抱えながら誤魔化しながら、ただ生きていく。この世に生まれてきた意味は最初からないが、自分自身の存在自体がこの社会をつくっている要素で、意味はいくらでもつくることができる。しばらく誰とも話さなくても、寝てばかりでも、吐き出した二酸化炭素が森の木々たちの光合成に役に立ってる可能性はある。ただ生きる、それですべてがOKなのだということ。そんな気持ち。
わたしたちは、あまりにも体と心のバランスについて無知で無頓着すぎないか?
現代人こそ、もっとひとりひとりが自覚して体と心の両方を大切にすることを学んだほうがいいと思う。
わたしは神様から病気になったりいろいろ課題を与えられて、つらい経験をしながらこの10年、自分の心と体に強制的に向き合わされて、ようやく少し光を感じれるように学ぶことができた。
ただの運、時代の運命で、今その過酷な境遇に置かれている死にたいあなたへ。
どうか、その運命を乗り越えなくてもよく、逃げてもよく、絶望を抱えたまま生きる道があることを知って欲しい。生きているその先がそんないいものではないとしても、死ななかった先にそんな道を歩いてるわたしがいることを知って欲しい。
死にたいと絶望しているあなたが、今生きて存在していて、わたしは仲間がいるようで嬉しい。あなたの存在は社会そのもの。あなたがいなくなったら、社会は変わる。死んだら社会から排除されなかったことになる。自殺者のただの数字に化けないように、明日のニュース記事にならないように、、もう私の心はそんな記事で傷つきたくない。こんなに死にたい人たちがいる社会を、死をもって知らしめるのではなく、生をもって知らしめよう。生き続けることでこの社会の生きづらさを知っている仲間は増えるのだから。傷を舐め合いながら死にたいと叫びながら、どうか共に生きてほしい。