ジョンレノンにハイタッチ(わかる、イマジンだよねって話)
なんだか見ていてつらいことがたくさんあるなー。そう思いながらTwitterをながめていたら、あそうかも。(浅生鴨)さんがこう言っていた。
わたしもそう思った。「同じ何か」だと。
なんだか「自分」と「他人や世間」の間の距離が、おかしなことになっているように見える。ここ15年くらいで、インターネットによって圧倒的に増えた情報量とそのスピードの速さに、「自分」を確立しないと流されてしまう、埋もれてしまうという焦りがうまれているのではないだろうか。
そして、自分を大事にする(価値を上げる)ために世間や他人を貶める。誰かの存在や時間や気持ちを軽くみることで、自分だけを必死に取り出そうとする。威張ったり、疑ったり、バカにしたり、自分だけ得をしようとしたり、誰かの得を許せなかったりする。
しかしそれは、ぜんぶ自分に返ってくることになる。誰かの存在を軽くみることで、自分の信頼や信用はどんどんなくなり、結果的に自分の価値を自ら下げていることになる。
わたしは、こうなってしまう「同じ何か」の、ほとんどは「想像力の不足」からくるのだと思う。そしてさらに「相手の想像力をないことにする(想像できない)」というマトリョーシカ構造にもなっている。
たとえば、前のかもさんのツイートにある「CMにこれはイメージですとテロップを入れる」ことは、企業側が「不快に思うひとがいるかもしれないから」という想像からきているように見えるけれど、視聴者の理解力や想像力をないものとしている。イメージですと言わないとイメージだということをイメージできないとバカにしている(もうすでにわけがわからない)。その背景にはもちろんいろいろな事情があるのだろうけれど、誰かに向けて何かを伝えるときに「おまえには理解できないだろう」という前提で伝えたら、なにも伝わるわけがない。伝わるのはバカにされたことだけだ。
こういう悪循環を感じることはよくあるけれど、あーちん(娘)が小学校に行きはじめて、授業の進めかたや、先生と生徒の関わりかたを見たときも、おなじように感じた。
生徒のひとりひとりの家庭環境や性格などを考慮していては、全クラスが同じように授業が進まない。全員に均等な配慮ができないのならば、いっそ誰にも考慮しないことにすると決めているかのように感じた(プライバシーの問題もあるので、各ご家庭でおねがいしますと言われる)。また、誰かだけを褒めると苦情が出たり不快に思うひとがいるからと、生徒を個人的に褒めることはほとんどしない。これもまた事情もあるのだろうし、生徒からしても先生の当たりハズレの幅が少なくなるのかもしれない。だけど、これはまずいなと思った。
わたしは、こどもの教育のなかで「学力」よりも大事なのは「想像力」だと思う。こどもはまず世界が狭い。家庭と学校しかない。そこから社会に出るために必要なのは視野をひろげることで、それは自分のいる世界から外に向かってどこまで興味関心をもてるかということだ。まず自分のいる世界がすべてではなくて、どこまでも広くひろがっていると想像できないといけない。
歳を重ねて自分のことがわかってきたときに、自分は特別だと思うと同時に、隣の誰かも、知らない誰かもまた特別なのだと想像できるといい。
本を読んだり誰かの話を聞いたときに、情報としてだけそのまま受けとるではなくて、その奥に「どうしてそうなったのか」「ほんとうにそうなのか」と想像して考えられると、その情報には自分だけの価値が生まれる。
誰かが怒ったり悲しんだりよろこんだりしているときに、そのひとの気持ちを想像して「なぜ悲しいのか」「なぜ怒ったのか」と考えると、自分と他人はまったく切り離された別ものではなくて、他人を見た自分の目(見え方)次第でその関係性は変わってくるのだということがわかるようになる。
誰かに怒られても「悲しい」「自分はダメだ」ではなく「なぜこのひとは怒ったのか」「今後どうしたらいいのか」と想像すると、マイナスではなくて次回の課題(プラス)がうまれる。
想像力があると、自分と誰かを、自分と世界を、同じ重さで見ることができるようになる。それは単にやさしさだけではなくて、ほんとうにそうかなと疑うことも含めて必要で、それは価値観に柔軟性をもたらす。自分の考えすら疑って固定観念を捨てることができる。自分の考えを固く守っていたら、それよりいい考えが入ってこない。いまのところはこれだけど、もっといい考え方があるかもしれないと想像する。そうして自分の中で世界を勝手にどんどんいいものにしていくことができる。
世界を疑うおなじ分量でじぶんを疑うし、自分を信じるおなじ分量で世界を信じる。想像力が増えるほどその範囲が大きくなる。想像の中に生きる(自分が薄くなる)ということではなくて、想像力で見える範囲を広げると、反射で返ってくるものが大きく、それがぜんぶ自分になっていく(自分がより濃くなる)。
そして、なにより想像力のいいところは、数値化できないところだ。ひとと比べられなくていいし、無限大だからいい。
想像力をどうやって育てるのか、いろいろな方法があると思うけれど、わたしが自分のこどもにしてきたことは、徹底的にこどもを褒めることだった。
こどもに「自分がされてイヤなことは相手にもするな」「相手がどう思うか想像しろ」と言うことは簡単だけれど、そのベースに「自分の考えに価値がある」と信じていなければできない。だからまずはこどもには自分の考えることに自信をもってほしかった。
そのうえで、基本的に「すきにして」「じぶんで考えて」というスパルタ方針だ。
もちろん、これがいいのかどうかはわからない。教育に正解などないし、結果はいつになってもわからない。だけど、親がわたしなので、彼女には学力はちょっとあきらめてもらって、想像力でどこまでいけるか、今も実験の最中だ。
なにしろ天井知らずの無限大なので、おわらない実験だけど。