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人生はヒマつぶし(仕事とお金と時間をわけて考えようという話)

わたし自身がいま、仕事について猛烈に考えているからか、とにかく仕事に悩む話やつらい話が目に入ってくる。

わたしが仕事について考えているというのは「悩み」ではなくて「考えて決める」という作業であって、「つらいからどうしよう」ではなくて「どうやったらおもしろいかな」なのだけど、どうしても「仕事はつらいもの」「つらいからお金をもらえる」と、ガマンしているひとがとても多い。


わたしはこどものころから「はやくオトナになりたい」と思っていたのだけど、それは「誰のせいにもしないで、ぜんぶ自分で決めたい」という希望で、自己中心的な考えが根本的にあった。ジコチューな性格だから、自分がどうしたいかだけを考えることができるけれど、それでも社会に出てすぐは「仕事」というのが何なのか全くわからなかったので、決めようがなかった。あんな働きかたをよくしていたなと思うし、同僚は「あのころ、毎日本気で出勤中に 死なない程度に車に轢かれたい と思っていた」と言う。責任感がつよいひとほど、外の情報を遮断してなにも見えなくなっていた。

今わたしたちは生きていて、ふりかえって笑い話にできるけれど、その最中は前も後ろも暗闇だったし、「死ぬくらいならなんでもできる」というあたり前のこともわからなくなって、明るい考えがひとつもできなくなっていた、とても危うい状態だったと思う。

それでは会社や社会がすべて悪いのかというと、会社側だって「死ぬくらいなら辞めてほしい」ともちろん思うだろう。大人は、たとえ自分がいつか通った道だとしても、自分が乗り越えられた過去は軽視しがちで、追いつめられていることになかなか気がつかない。

つらい自慢をしたいわけではない。自分が何をしているか知らないと、誰しもがそうなってしまうキケンがある。

だから、わたしは社会に出る前に「仕事とはなにか」をもっと知りたかった。そのことについてはだいぶ根にもっているし、やはり必要だといつも思う。


どうして仕事をしたらお金をもらえるのか、お金がないと困るから仕事をするのか、どうしてお金が必要なのか、なにに認められたいのか、どうなりたいのか、どう生きたいのか。そうやってひとつひとつ考えていると、仕事とお金と時間をいっしょくたにしすぎなのではないかと思う。


誤解を恐れずに極端なことを言うと、生きている限り時間はある。その時間をなにをして埋めるか。それだけだと思う。

時間を埋めるためにお金が必要だというのはわかるけれど、お金がないと時間がなくなるわけではない。それではまるで時間があると困るみたいで、生きていることの否定になる。じぶんの時間をつらいことで埋めてお金をもらっても、それをなにに使うのか。そんなふうに時間を敵のようにやっつけなくてもいいんだよと言いたい。

お金がない、やりたいことがない、才能がない。そんなことよりまず、わたしたちには時間がある。そこから考えはじめて、なにに使おうかな、誰とすごそうかなと、自分で決めていいのだ。

ひとりじゃヒマだから誰かと絡みたいな、誰かがよろこぶとうれしいからなにかしてあげたいな、なにかをしてもらったらうれしいからお礼をしたいな、お金はその循環の記号でしかない。あったらどうとかなくてもいいとかではなくて、ほんとうにただの記号なのだ。

親や上司や世間に認められたい、役に立ちたい、という思いやその大きさはひとそれぞれで、それを叶えるために仕事をする人も多いだろうけど、それは自分だけの個人的な願望であって、それは残念ながらお金と交換できるものではない。



いつか必ず死ぬことを思うと、好きにつかっていいはずの時間を、時間がはやく過ぎるのを望むかのようにガマンするなんて、もったいなすぎる。死ぬときに「なんだ、どうせ終わるなら好きにつかえばよかった」と思いたくない。

あたり前のようで、後回しになっているような気がするから、バカみたいに繰り返し言おう。わたしたちはいつか死ぬし、それまでの時間を好きにつかっていいんだよ。ガマンして過ごしても、死ぬときに誰のせいにもできないんだよ、と。

そうじゃないと、もっと生きたかったはずの、ひとあし先に亡くなったあのひとたちに殴られる。


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桜林 直子(サクちゃん)
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