「学校で浪費される無駄な10年間をどーにかすべき論」に考えた「こんなこといいな、できたらいいな、アンアン案」
ちきりんさんのブログ「学校で浪費される無駄な10年間をどーにかすべき論」を読んで。
14歳なので見かけは子供です。
でも100人にひとりくらい、つまり、2クラスにひとりくらい、中身はもはや子供ではないという子がでてきます。
(中略)
この子たちは、4歳からの10年間、かなりのスピードで成長します。
ところが14歳になると、その成長カーブがいきなり緩くなってしまうんです。
なぜなら、この期間に彼らが受ける「クラスの真ん中の子」にあわせた教育が、あまりにかったるいから。
彼らは今、「十分、大人の世界に入っていける状態なのに、10年もの間、周りが子供ばっかりという環境で、子供扱いされながら過ごす」ことになり、そんなんじゃ成長カーブが最大化するわけがない。
人を育てるべき学校が、優秀な子供の成長の足かせになっているなんて、ナンセンスでしょ?
これを読んで、首がもげるほど頷いた。
わたしは親バカだから、あーちん(娘)のことだけを見て、あーちんのことだけを考えていたけれど、本当に、ぼんやりしていたらあっという間に大きくなってしまうので、こどもの才能の片鱗をつかんだら、すぐに対応してあげた方がいいと思う。
わたしの場合は「小学校の先生は、個人の良さを褒めないな」と気がついたので、すぐに目が合う場所さがしをした。
そしてその結果、運良く、ほぼ日で活躍することができた。
逆に言うと、中途半端に褒められて満足しているよりも、外に出るキッカケになったので、むしろよかったとも言える。
学校にもよるだろうし、先生にもよるのだろうけれど、多くの公立の小学校では、個々に伸ばすべき才能を教えてくれることはないのだと思う。(みんなの前で、だれかを褒めることすらしないので)
そのことは保護者もわかっているので、こどもに、塾や様々な習いごとに通わせているのだと思う。
習い事も悪くはない。水泳やピアノや習字は、プロになれなくとも、役に立つ。けれど、先行投資で種目を絞るのは、なんだかバクチのようだし、「何とかものになってほしい」という親の期待は、こどもにプレッシャーもかかる。
わたしとあーちんの場合は、本当に運がよく、学校の外にぴったりと合う場所を見つけることができて、彼女も同年代の目を気にすることなくのびのびと才能を発揮できた。(学校で、友達にほぼ日での活動の話をすることはなかった)
それでは、それがなかった場合どうしていたか、また、何があるとよかったか考えてみた。(以下、妄想。ツッコミどころがあると思うけれど、聞き流してほしい)
細かい専門分野にわける前に、もっとざっくりとした部門別の塾(校外学習の場)があるといい
よくある習い事は「ピアノ」「バイオリン」「バレエ」「習字」「水泳」「サッカー」「学習塾」などかなり限られている。
その一点を伸ばすには良いのだろうけれど、はじめから絞ってしまうと、そこに集中するので競争相手も多く、挫折してしまう。
たとえば、わたしは小学校の低学年のころ、ピアノを習っていたのだけれど、どうにもこうにも向いていなかったし、好きになれなかった。
その時点で「わたしは音楽に向いていない」と思い込んでしまった。
ところが、小学校の高学年になってはじめて触れたマリンバが、なぜかとても得意で、大好きだった。
しかし、演奏会の練習以外でさわることはできなかったので、その情熱は冷ますしかなかった。
あのとき、もしもマリンバを教えてくれる場があって、毎日夢中に叩ける場所があったらどうなっていたかな、と思う。
まあ、どうにもなっていないかもしれないし、ただのもしも話なのだけど、要は、才能をみつけるチャンスが少なすぎると思う。
そこで、たとえば「音楽」「スポーツ」「文芸」「生物」「科学」「美術」「食べもの」などザックリとした分野の習いごとがあって、そのなかではそれぞれのプロまたはセミプロが教えてくれる。
そこに、「これは!」という子供だけを通わせる。
「文芸」のなかでも「読書」「作文」「評論」「記者」など細かく分かれた授業があって、なんとなく本が好きな子供が、読むのが好きなのか、書くのが好きなのか、読んだ本について話すのが好きなのか、授業を受けることで浮かび上がってくる。また、その道のプロが才能を見抜くこともできる。
勉強が得意な子供も、「学習塾」という受験に向ける勉強を目的とするのではなくて、「学習」のなかで「研究」「経営」など(残念ながらわたしの頭が悪くて思い浮かばないけど)をわけて学び、その分野があるということを知って、早くに何が向いているのか自他ともに認められるといい。
では、その先生はだれなのか、というと、
ひとつは、専門的な分野の大学や専門学校の先生たちだ。
というより大学生または専門学生が、アルバイトで教えるのはどうだろうか。
(お金は国とかが出せばいい。知らないけど)
学生からすると、まだ勉強中だけれど、わたしの経験上、人に教えるということはなによりも自分の勉強になる。そして、わからないことやできないことが明確になる。そして、才能のある子供たちがライバルになり、危機感を感じる。
たとえば音大生が居酒屋でバイトをするよりも、その仕事の方が有意義なんじゃないかと思う。(数人の学生は、じぶんが教えることに向いていると気がつくこともできるかもしれない)
もうひとつは、街の仕事人たちだ。(種目によっては企業やアーティストも)
たとえば「食べもの」塾の授業で、街の豆腐屋さんに、作り方やその生活を習いにいったらいい。
ちゃんと授業料を払えば受けてくれると思うし(公立の中学校の職業体験はボランティアだし職種もあまり選べない)、もしかしたら将来の後継ぎが見つかるかもしれない。
なにより、そのリアルな仕事に直結した授業こそ、子供の将来を想像させるいちばんの近道だと思う。うっかり就職する前に体験して、向き不向きが早いうちにわかった方がいい。(要するに早期かつ短期のインターン)
ただ、これをすべての子供に課すると、ただの義務になったり、教える側も数をこなさなければならないので、やっつけ仕事になりかねない。
あくまでも、その才能の芽がある子供にだけ、受けさせたらいいと思う(やってみて向いていなければ即やめる、転校可の制度)。
この、贔屓とも差別ともとれる方法こそが、公立の学校の真逆をいく唯一の方法だと思うので。
学校で「みんな同じ」を学ぶのなら、学校の外では「オレは特別だ」を学べばいい。
それにはまず、親がその子の性質を見抜けなければいけない。
それは、子供の、才能をみつけることだけではなくて、才能がないこともまたわからないといけない。
(ちなみにあーちんは、運動がぜんぜんダメで、スケジュール管理能力もゼロだ)
親の期待や思い込みで、子供を追いつめてはいけない。
「こどもがなにができるか」を見るのではなく、こどもを、その人を、見る。
いちばん難しい課題は、社会や学校ではなく、親に与えられているのだと思う。