過去がかわるとき(『マチネの終わりに』を読んで)
「マチネの終わりに」平野啓一郎 著 を読み終えて、あたまの中に、ある考えがあふれてきたので、ちょっと書いておこうと思う。
「過去は変えられる」ということについて、何年もずっと考えている。
当時の経験や感情はかわらないけれど、あとからそれがまったく別のものに見えたり、まったく別の捉え方をするようになったりする。単に過去を美化するとか正当化するいうことではなく。
わたしはこどものころから父との相性が悪く、双方がそれを隠さない性格だったので、年々仲が悪くなっていった。
小学生の頃からずっと、ぶつかることも反抗もせず、ただ、父がいなくなることだけを願っていた。寝る前に何度も、寝ている父に刃物を向けたり、ビールに毒を盛ったりという、こどもならではの残酷で稚拙な想像を繰り返していた。
わたしは、出生時、血液不適合で黄疸がひどく、産まれてすぐに交換輸血をして、体内の血液をすべて取りかえた。その事実を聞いたときも、輸血で人格や性格は変わるのではないか、それは犯罪者の血ではなかったか、などと心配したのをおぼえている。
そのまま時間がたった、わたしが18歳の夏に、父が脳梗塞で倒れ、駅の階段から落下して脊髄を損傷した。その連絡を受けたわたしは「呪いが叶ってしまった」と怯えた。4年間の入院生活を経て父が亡くなってもなお「これはわたしのせいだ」と思っていた。
そしてその後も、自分のまわりに起こるあらゆる良くないことは、自分への罰だと思っていた。試練はすべて受け入れるべきで、しあわせになることは許されないのだ、と思いこんでいた。
今思うと、23歳で妊娠したときも、さらなる試練だと感じたし、すぐに離婚してシングルマザーになる選択も、自らしんどいほうを選ぶクセからきていたと言えなくもない。男のひとに頼れなかったのも、当然だと思う。
そして、その反動で、自分を犠牲にしても、こどもにしあわせになってほしいという思いが強く、そんな動機から、彼女のしあわせについていつも考えていた。
なにがこどもにとってしあわせなのか、しつこく考え続けていたら、どんな方向から考えはじめても、結局たどりつくのはいつも同じ場所だった。
それは「お母さんがしあわせであること」だった。
こどもに笑ってほしければ、わたしが笑っていないと。こどもにしあわせになってほしければ、わたしがしあわせでないといけないとわかった。
わたしが、貪欲にしあわせになることをあきらめないのは、自分がポジティブだからではなく、そんな真逆の場所からうまれた動機だった。
父もまた同様に、自分自身を嫌うことの反動が、わたしへの態度だったのだと気がつくことができた。わたしが父に向けていたと思っていた呪いは、じつは自分へかけていたのだということもわかり、父への思いは、こどものおかげで、だんだん変わっていった。
父に嫌われていたと思っていたけれど、彼自身が親との関係性で傷ついていたのだと思えるようになったし、わたしが、自分を守るために父を悪だとして見ていたのだ ということもわかった。
残念ながら、父にそれを伝えることはできないけれど、出来事を美化するのではなく、思い出もそのままで、過去を振りかえって見える景色はまったくちがうものになった。
わたしの場合は、思わぬ段階を経て、こどもへの愛情とこどもからの愛情をちゃんと受け入れることで、過去が変わったのだと思っている。
過去は、自分自身で変えるのではなく、他からの愛を受けとったときに変わるのだと思っている。自分への愛だけでなく、他から他への愛の場合もあるだろうけれど、それが見えるようになる瞬間がくるのだと思う。
そして同時に、過去は現在の積み重ねでしかなく、そのときそのときに置いてきた愛のようなものを、ふりかえって束ねたときに、あれは愛だったんだね とわかるのであれば、現在にできることは、その場ですぐに伝わらなくても、愛を出し惜しみしないで、立ち止まらずにそれを置き去りにすることかもしれない。
1冊の本から、いつも考えていたことが一気にでてきて、おどろいている。もちろん同じ本を読んでも、人によって心のどこが動くかはわからないけれど、その出会う運命と、手にとって読む意思も含めて、本には、過去を変えるちからがあるのだなと知って、感動した。
なんだかだいぶおおげさだけど、こんな読書体験ができたことがうれしくて、書いてみた。