ヒマラヤ7000m峰への挑戦と挫折⑫
最終回。C1・BC撤収、下山へ
「1997年長崎県山岳連盟サトパント峰学術登山隊」の記録を登頂断念記より投稿しています。
8月17日ビバークアタックし登頂断念の決断となりました。
最終場面について隊員2名の報告やS隊長の総括報告を基に投稿し、
私自身のボジュバスでの療養滞在を投稿しました。
最終回として下山行程を投稿いたします。
8月18日(月)C1撤収しBCに下る。
C1からBCに引揚げる。
私が酷く落胆しているように見えたのだろう。ロイが声をかけてくれる。「山は逃げない。また来よう。」撤収作業に専念して気持ちを紛らわす。
午前10時、C1出発。後ろ髪を引かれる思いで何度もサトパントを振り返る。
午前12時、BC到着。
コック長のシンが優しい笑顔と熱いチャイ(ミルク入り紅茶)で迎えてくれる。ところが雪焼けで唇が割れており、沁みて痛い。鬚は伸び放題。サングラスの痕だけが白い。酷い顔になっているようだ。
このBCを離れて10日あまりしか経っていないのに、何かが違う。周りを彩っていた黄色の花が散って実に変わっている。
標高4800mの夏はあまりにも短く、すっかり秋の気配である。
8月19日(火)共同装備の整理
早くKB隊員らがいるポジュパスまで下りたいが、ポーター達が上がって来るのは明日になる。午後から周辺を散歩する。
18∼19日はKU隊員の報告より。
断念記を読みながら投稿していると一番の立役者と思います。
8月20日(水)ポーター集合。
ここからはS隊長とKU隊員の報告要点。
本日、下界から帰路のためのポーターが集結。共同装備の確認や梱包に追われる。
バギラッティに朝陽が当たって綺麗だ。
お花畑を見に行く。高山植物が群生している様は、この世のものとは思われない。
8月21日(木)ポジュバスへ下山
行きはわき目もふらず通り過ぎたガンガの源流ゴームクで、バギナッティ川の水に足を入れる。氷河が溶けたすぐの水だから0度に近い。ゴームクを後にポジュバスへと急ぐ。
高山病のため先に下山していた二人もだいぶん回復しているようだ。
ポジュバスの河原におりる。ガーネット入りの石を見つけ廻り、発見しては喜ぶ。
私とKB隊員は12日C1からBCに下り、BCでも症状は回復せず、MU隊員の同行で13日にはボジュバス3,792mまで下っていました。
本隊が戻ってくるまでの8日間は日記を執る元気もなくベットに横たわっていたと思います。ガーネット入りの石探しはしたようで沢山お土産に持ち帰りました。
8月22日(金)ボジュバスからガンゴトリ。
キャラバン最終日、各隊員マイペースでガンゴトリに向かう。
ガンゴトリではインド人スタッフと最後の晩餐会。
キャラバン途中で拾ったマツポックリ(長さ20cm・蹊cm)が、書棚にあります。
8月23日(土)ガンゴトリからリシケシ。
行程296km。
行きは2日間の道のりを帰りは1日でした。
中間地点のガンガナニの温泉で隊員一同久々の温泉につかる。素肌で入るのは厳禁で、パンツは着たままです。
「登攀隊長がザックに入れていた登山用上着がなくなっていた。
後日、デリーだったか露店で売られていた。」との記憶が残っていますが、どうだったかな?
8月24日(日)リシケシからデリー。
夕方懐かしのジャンパスホテルに到着。
デリーは雨模様である。
8月25日(月)デリー滞在。
リエゾンオフィサーのロイと登山報告書を作成する。インド登山財団への報告書です。
他の隊員はどうしたのかな?観光したようです。
8月26日(火)滞在、市内観光。
S隊長とロイはインド登山財団へ出向き、登山終了の手続きを行う。
皆はささやかな市内観光と買い物で一日を潰す。
夕食後飛行場へ。
8月27日(水)ホテル待機。
デリー1時15分発AI314便に搭乗予定である。なかなか搭乗できない。
午前3時頃になってムンバイ(ボンベイ)の大雨でフライトできないとのこと。アショカホテルでの待機となる。
退屈な時間を過ごしたが一回の国際電話代、宿泊・食事代は航空会社持ちで良い思い出になった。出国したのは23時30分。
8月28日(木)帰国関西空港12時45分着。
やっと帰国した。
今回の遠征は、高山病でダウンして皆と行動は一緒にできず消化不良・無念の山でした。
帰国後は、仕事や県体準備に追われ大きな遠征だったのに、記録の整理など出来る状態でなかった。
山で何もできなかったことが記録未整理になったと思いますが、こうやってブログ投稿してみると、貴重な経験を書き残していなかったのが残念です。
次回は、カナディアンロッキーの山を投稿予定です。