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山登り人生vol169二回続けて怖さを知る久住山
私31歳。奥様31歳、長女6歳、長男5歳、次男1歳
海外登山、岩登り・冬山合宿など
遠方での山行が無くなった昭和55年度を振り返えっています。
ホームグラウンド(黒髪・多良山系)がメインでしたが、
二回続けて久住に向かいました。
怖さを知った久住でした。
No293怖い久住山
昭和56年1月14~15日
M社長、職場同僚Yと私
14日佐世保20:00⇒24:00長者原
15日出発6:00→7:50すがもり小屋(朝食)9:00→久住山11:00→久住分れ避難小屋12:30→法華院山荘14:00→雨ケ池越→16:00長者原17:00⇒23:00佐世保
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13日夜に話が纏まったようである。
二人から誘いがあり出かけた。
正月は吹雪で十分に動けなかったが、今回も天気予報はよろしくない。
15日朝飯抜きで出発する。
前線の南側か気温は0度と高い。
小屋で朝食としたが出る頃には悪くなった。
またまた吹雪である。
北千里の一つ先のケルンが確認できない。
正月との違いは気温が高いことだ。
ミゾレ・雨が顔を叩きつけ痛い。
ヤッケはびしょ濡れになってきた。
視界の悪さは正月以上だ。
久住分れの上りも星生山寄りとなり苦労した。
休みなしで久住に向かう。
山頂でマイナス5度。
M社長は全天候型の8ミリカメラを回す。
御池避難小屋石室まで行こうと下ったが、
ホワイトアウト状態になりリングワンデリングしてしまった。
2週間前の記憶を辿るが判然としない。
二人を残し偵察するが、せいぜい80m程進んだだろうか、
それなのに二人の処に戻れない。
笛を吹き合いどうにか合流できた。
久住は怖いと思った。
三度目の動きで久住分れに着いた。
避難小屋も吹雪に隠れている。
小屋目前での遭難例が良くあるが実感した。
コンパスで確認しどうにか小屋入りできた。
昼食とした。3パーティーは久住山頂を諦めた。
高齢者は牧ノ戸に下ろうとしたが道が判らず戻って来た。
我々は北千里に下った。
上りのトレースは消えているがなんとかなった。
北千里の終わり谷筋からの吹き上げ風が強烈で
吹き溜まりにもなっており、これが九州かと驚いた。
時々、腰まで埋もれながらどうにか法華院に辿り着いた。
濃霧、吹雪からも抜け出した。
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久住は確かに怖い山だと実感した。
目標とするものがなく風には無防備である。
吹雪いているとコンパスの確認も上手くできない。
昭和37年元旦の遭難、
7名の方が亡くなったがあの大きなケルンがなかったらとゾーットする。
2回続けて久住の怖さを知らされた山行になりました。