ヒマラヤ7000m峰への挑戦と挫折②出発まで
1997年長崎県山岳連盟サトパント峰学術登山隊
1996年2月同連盟理事会において隊名と隊長、登攀リーダー、遠征隊事務局が決定し準備が進められました。
同年3月23日隊員の初顔合わせが諫早富川小屋で行われ参加負担金50万円の徴収が始まり、翌日は多良山系経が岳へのボッカ訓練です。
合同訓練
同年4月14日 合同訓練経ガ岳左俣ルンゼで岩登り8名
同年5月1~6日 春山合宿が剣岳で実施9名参加。
2日 ⇒室堂→剣御前小屋→剣沢BC
3日 雪上訓練
4日 別山尾根→剣岳→平蔵谷→剣沢
5日 下山→剣御前小屋→室堂
同年12月29~3日冬山合宿が富士山で実施8名参加
30日 吉田口登山口馬返し幕営
31日 佐藤小屋下BC設置 上部でトレ
01日 八合目上部訓練→吉田大沢→BC
02日 下山
1日、早朝からの強風、ラジオでは低気圧の発達と九州地方の悪天を伝えている。4時起床を見合わせて8時頃からのサブ行動となる。山頂泊まりは中止となった。
吉田大沢に入ったメンバー2名が滑落、何とか止めた。別の1名も夏道で滑落する。登攀リーダーの判断に疑問符が付く。サトパント本番でもチームが纏まらない原因となった。
2日、予想とおり昨夜半から雪となってBCでも強風となった。
旅行代理店
1996年12月 旅行代理店の決定
西遊旅行と決め行程、航空機手配、現地代理店交渉、共同装備の発送、山岳保険など協議を進めます。
1997年2月10日 インドデリーでの現地旅行代理店の決定
シーカル社と決め日程、デリー滞在時の内容確認し料金条件の協議を進めました。
料金条件の確認
① デリー滞在のホテル利用、2名部屋朝食付き
② デリー以外は、宿泊3食付き
③ ベースキャンプ用2名テント、メステント、キッチンテント、トイレットテント
④ コック1名、コック補助2名、高所ポーター2名
⑤ デリー市内エアコン付きバス、デリー以外エアコン無しのミニバス
父の死亡と職場の異動
1月27日 父逝去 毎週の供養で山活動から離れました。
5月01日 職場の異動。
子育て支援のマスタープラン作りで意見交換会など連日残業に追われました。通常業務も多忙で長期休暇を申し出せないまま時間が過ぎます。
5月 計画書作成、新聞社への説明
長崎県教育委員会への後援依頼、現地旅行代理店と装備確認など関係機関との協議が進みます。
6月8日 隊員から誓約書を徴取
万一の際の誓約書を提出させる一方、所属長への隊員派遣要請がありました。
直接の上司からは「何を考えているの。」と一喝されました。
諦めがつかない矢先、その上司の上司から呼び出され山での成功を伝達されました。その分、仕事はより一層の頑張りとなりました。
誓約書はインド滞在中の不測の事態に対し同連盟に異議申し立てしない旨の誓約で本人と保証人が必要でした。
出発近し
6月下旬 遠征用物資の集積場所の確保
大村市に確保し、物資の集積・買出しを実施し毎週のように集まりました。フィックスロープ、スノーバなど共同装備の梱包。
別送品アナカンの7月20日関西空港AI319便に決定し、我々の出発・帰国便も決定しました。
7月6日 隊荷の最終チェック
隊荷を最終的にまとめ梱包を完了しました。
7月11日 西遊旅行の手配内容の確認書を承認しました。
① 大阪~デリー間航空券の予約発券
② インド査証の取得
③ 現地代理店との通信手段
7月20日 日本通運 アナカン発送
7月22日 外務省等への念書提出
外務省や在インド日本大使館あて念書や願い書提出し出発日を待つだけとなりました。
日本政府へ迷惑をかけない旨の書類で便宜供与の依頼書でした。
次回は、出発までのインド関係機関との交渉を投稿予定です。