ヒマラヤ7000m峰への挑戦と挫折⑩
無念!ついに登頂断念
「1997年長崎県山岳連盟サトパント峰学術登山隊」の記録を登頂断念記を基に投稿しています。
8月17日ビバークアタックし登頂断念の決断となりました。
前回投稿では、高体連所属の2名の隊員からの報告を基にその様子を投稿しましたが、今回はC1で指揮に当たったS隊長の総括報告を基にまとめてみました。
5項目で総括されています。
素直な気持ち「もすこし」
もすこし日程に余裕があったら
もすこし天気が良かったら
もすこしナイフリッジの状態が良かったら
もすこし荷揚げが順調にいっていたなら
もすこし体調が良かったら
もすこしフィックスロープに余裕があったら
もすこしに泣き、もすこしを恨む。
でも、山は逃げない。
明日に向かって、新たな気持ちで前進しよう。
失敗は成功のもとだ。朝の来ない夜はない。
1「高山病による戦力減」
C1で隊員二人のBCへの下山。BCでも二人は回復せずポジュバスまで下る。
C2でルート工作隊員の発熱。大きな戦力喪失となる。
この一人が私で隊にとっても戦力減であったが、自身にとっても悔しい遠征でした。ポジュバスでの記憶も殆どなく、かなり重症だったと思います。
2「高所ポーターの不足」
当初2名の高所ポーターのうち1名が登山靴のトラブルで麓まで取り換えに行かなければならないと言う。
その間、隊荷の荷揚げで足を引かれることになる。
そこで急遽富山山想会のサトパント遠征時の高所ポーターをしていた人を現地採用することにしたが、登山靴やピッケル、アイゼンなどを提供しなければならない。有り合わせがないため現金を渡し購入してもらうことにした。
購入後、実働できるのは2日後になると言う。
登山活動期間が短い隊として痛手であった。
C2への荷揚げが思うようにはかどらない。
そのため隊員が30kg以上の重量を5000m級の高所で荷揚げしなければならない羽目になった。
登山活動に大きく影響を来した。
3「天候不順に泣かされる。」
C1へ荷揚げが始まった8月8日は曇り、9日は珍しく晴れであった。
しかし、それ以降の天候は雨期の時期を反映して、連日まともに晴れることはなく、C1では雨や雪の状態である。
天気変化のパターンは朝は晴れ、昼前から雨や雪になることが多い。
そのため登山活動の制限を受けざるを得ない。
特にナイフリッジ地帯でのルート工作では、天と地の区別が分かり難く悪戦を強いられる。
4「登攀用装備の不足」
輸送代を極力安くするなどの理由から、フィックスロープをどうするかは国内段階からの重要懸案であった。
持参したものは6mmのクレモナロープである。
ルートを示すだけのものとして考えた場合は十分であるが、体重を掛けるような場所ではやや心もとない。結果的には質・量ともに少なかった。
C1からC2に至る氷壁には8mmロープを十分持参すべきで、かつナイフリッジでのフィックスロープべた張りを考慮したら量も更に多めに持参すべきであった。
現地での最終判断の1項目として、「残り少ないフィックスロープが無くなった時点で登山活動の終了。」というところまで追い詰められた。
5「最終的な断念・8月17日」
朝の強い太陽光線を浴びて、午前9時ぐらいからナイフリッジの雪が腐れだす。アタック隊はスノーバーを打ち込んでも、フィックスロープに僅かのテンションが掛かっただけで、スノーバーが浮きあげる状態になる。行動はかなり慎重になる。
また連日、正午近くから小雪が舞いだし、視界が悪くなる。このような状態でどこまで安全に進めるか疑問になってくる。
厳しすぎるナイフリッジのため跨ってしか前進できない個所もある。
過去の報告書を見ると雪の付着状態が良い時は、難なく歩いて登高できたというのに残念だ。
更に、残りの登山期間が僅かとなり8月19日までにBCに帰着しなければならない。
遂に決断の時、
アタック隊が最後と思ったピークの先には厳しいナイフリッジとピークが再び現れる。
隊員には大きく心が動いた。
BC帰着の期限、
残り少ないフィックスロープ、
天候不順のことを総合的に判断。
遂に絶対口に出したくない「引き返そう」という言葉を出さざるを得なかった。
常にトップは孤独です。S隊長も厳しい決断をC1で下されました。
次回は、私自身、高山病でボジュバスに下った「療養の日々」を投稿予定です。