黒髪へんろ道第14回デモ遍路に参加しました。
黒髪へんろ道開山の動きは、黒髪連山及び麓に八十八カ所の札所を設けて昭和3年に創設された黒髪新四国巡りを再興させようとの取り組みです。黒髪連山の自然と麓の民族文化を紹介して、全国の登山やウォーカーにその魅力を伝え、地域活性化を図ろうと地元有志により動き出しました。開山目標が今年3月1日と定められました。
2017年四国遍路で1200㎞野宿一人歩きした私にも声がかかりささやかに協力しています。
デモ遍路は黒髪へんろ道を12回に分け「区切打ち」を体験いただくイベントで、今回は有田町の内山地区編、第24番から33番札所を廻りました。有田内山は、江戸期に始まる有田焼の中心産地で佐賀藩の保護を受けて栄えた地区だそうです。窯焼きや商人の町屋が並ぶ表通りと、職人街の裏通りを案内いただきました。朝鮮陶工の姿や文化を解説いただきました。仕掛け人の吉島氏の知識と熱意、企画力と行動力に敬服するばかりです。
1月9日報恩寺に9時集合し赤絵バス停からバス移動です。
泉山地区で下車し最初に訪ねたのは石場相撲場です。後で廻る相撲場が昭和23年9月の台風通過で山手土砂が崩落して埋没。その時既に東京の大日本相撲協会と興業話が進んでいたので、翌24年にはこの相撲場が整備されたそうです。当時の有田の財力の凄さとのこと。
今の建屋は佐賀国体の際に造られたそうですが、伝説のプロレスラー力道山も土俵に上がっています。後で訪ねる石場神社に番付表があり名前が確認できます。昭和31年の東京相撲では1万人を超す観衆の姿があったそうです。
次に白磁ケ丘公園に案内いただきました。ここは「泉山磁石場」として陶器の原料となる陶石の砕石所です。有田は日本磁器発祥の地、ここは陶祖といわれる李参平が日本で最初に発見した場所です。およそ400年の時をかけ掘り続けたため奇景を作りだしています。
石場神社に向かいます。有田皿山は昔から相撲が盛んな土地柄だったようです。昭和24年番付力道山は小結だったようです。
24番札所は石場神社横の岩壁の中に石切観音が祀ってあります。
昭和23年まで相撲場だった金毘羅山へ。その後、土砂を除き現状に。隠れた紅葉の名所だそうです。
江戸時代の番所跡に向かいます。佐賀藩の役人が常駐し陶石や焼き物の持ち出しを取り締まっていたそうです。その近くに銀杏の巨木は国の天然記念物に指定されています。
次は山登りして26番札所琵琶嶽観音堂です。毎年1月17日には護摩焚き法要が行われるそうです
楠木谷窯跡に向かいました。初代柿右衛門の上絵付創始に縁の窯場。
泉山地蔵堂、上幸平大地蔵堂を廻ります。
朝鮮陶工のお墓だそうです。
職人街の裏通り、トンバイ塀の裏通りです。トンバイ塀とは登り窯を築くために用いた耐火レンガ(トンバイ)の廃材や使い捨ての窯道具を赤土で塗り固め作った塀のことです。
TOTO5代社長のお屋敷とか
トンベイ塀の裏通りが続きます。
表通りに出て陶山神社へ
磁器製の鳥居は珍しい。明治20年に寄進されたもの
桂雲寺に来ました。境内の小堂には「御手観音」が祀られています。毎年の大晦日には皿山の濃(だ)み娘1000人余りが参拝したと伝わるそうです。だみを作成するダミ手は女性職人の作業だったそうです。
こんな物も天上に吊るしてありました。
仕掛け人の同級生のお店にも寄りました。赤絵窯元鷹巣さん。商品に見とれました。
報恩寺にある「李参平の仮墓」に案内されました。この墓碑は昭和12年に当時の在日朝鮮人会の手で浄財を集め建立されたものです。その後、白川地区で墓石が発見されたそうです。
報恩寺の裏山に登りました。「火箱山」と呼ばれていた山ですが、大正14年に34尊の観音石仏を集めて観音塔を建立して以来「観音山」と呼ばれるように。
ここ観音山には江戸期から朝鮮陶工やその子孫が仲秋名月の夜に「望郷の宴」を開いたところです。仲秋の名月の日は、韓国ではお盆が営まれています。
タイトル写真は、観音山で韓国サムルノリ一団と有田の若者が一緒に追悼曲を奏でている写真だそうです。
報恩寺の戻って解散となりました。さあ開山に向けて正念場が続きます。