57年前の久住山行のスタイル
1953年設立の所属会は6年後機関紙「山なみ」を創刊した。その後はいろんな形での会報や報告誌が時折発行されていたが、1977年「山なみ2号」として創刊号表紙をそのまま引き継ぎ私を中心に発行にこぎつけた。編集担当を10年間続け毎月発行し続けた。その後はT女史8年間担当しM先生10年間、T女史再登場し現在まで13年間と継続している。積み重ねた発行は今年8月で398号となった。
こんなことを整理しているとある女子高山岳部報を見つけた。T女史のご主人が若き頃に顧問をしていた山岳部の部報「ぼっか」1号である。
その中で1965年(昭和40年)4月の久住山の記事が目を引いた。3年6組女子生徒の記事である。今も良く知っている幼稚園の先生だ。56年前の交通手段など懐かしく思い出したので、その導入部分を投稿します。次の写真は記事と関係なし。昭和44年10月すがもり越手前での集合写真。
ここからが本題記事です。
4月5日午前0時15分、門司港行に乗るため私たち、T先生、S先生、榎木、中野それに私の一行5名は23時頃S駅に来た。今から山に行くのだ。それも九州で一番高い久住山へ行くのだと思うと私の胸は高鳴った。恰好だけは一人前、重いリュックを担ぎ、いよいよ汽車に乗り込む。
ひと眠りしないと疲れが堪えるというので目を閉じるが一向に眠れそうにない。中野さんも私と同じなんだろう。薄く目を開けたり閉じたりしている。隣席の榎木さんは気持ち良さそうに眠っている。あまり興奮してか何回もトイレに立つ。それでも汽車はゴトゴトゴトゴト鳥栖へと進む。
「鳥栖へ着くと美味しいウドンがあるよ。」T先生が言った。汽車にゆられてそろそろお腹が空いてきた時分でゴクリと喉がなる。「早く鳥栖に着かないかなあ」
4時過ぎて鳥栖に着く。ここで1時間ばかり大分行きの汽車を待つ。売店に行ってみたらもう5日の朝刊がきていた。それから待ちに待ったウドンを食べた。本当に御代わりしたいくらい安くて美味しかった。
大分行きの汽車に乗る。まだ早いためか乗客は少ない。やがて豊後中村8時20分頃着いた。ここからバスに乗る。停留所に行ったら登山服装の人が沢山いた。この人達も久住山かどこかに登るのだろうかと思っているうちに8時40分いよいよバスに乗る。
山に行く人達でバスはいっぱいだった。そのバスの車掌さんが「ご乗車いただきまして有難うございます。この車は牧ノ戸行きで登山口まで約1時間1分でございます。」と言った。1時間1分、可笑しくなってクスクス笑ってしまった。またこの車掌さんは背負子にキスリングを積んでいるのを「足のついたリュック」と言ったのにも車中の笑いを誘った。愉快な人です。登山口に着いて水筒にお茶をもらい、いよいよ山へ向かって登る。10時
一緒のバスに乗っていた人達は大半が宮崎大学ワンゲル部のパーティーで何十キロもあるような大きな荷物を背負っていた。幅広いガタガタ道を暫く行くと硫黄の匂いがプンプン鼻をついてきた。少し上に登ると雪が残っている。もう4月になるというのに。
どれくらい登っただろうか細い路を時々休みながらトコトコ付いて行く。この辺りに来ると下は時々霧で見えなくなる。立木もない。遠くの方に硫黄の工場のようなものがあって何か音が聞こえる。雪も前よりは大分多い。小さな枯れたような草に霧氷が付いている。暑くなって背中は汗で濡れている。宮大の人達の後になり前になりして行く。後ろから見ると荷物が歩いて、荷物が勢いよく掛け声しているようだ。あんな大きな荷物を背負ってよく女の人が付いていくなあと感心した。私はだんだんくたばりかけていた。それに気づいて皆私の歩調に合わせてくれ、掛け声もかけてくれた。私は負けてはならないと思って宮大の後に付いて行く。
もう少し行くと山小屋に着くぞ、「そら~元気を出して登ろう」とT先生が言われた。そう言われると急に元気がでる。ましてお昼をそこですると言われるとたまらない。ようやくにして1540米のスガモリ越小屋についた。
記事はまだまだ続きますがここまでで・・・・。この後は北千里から久住山に登り白口谷を下って法華院泊まり、翌日大船山に登って長者原に下山。12時のバスで豊後中村に戻り帰っています。3日間の山行です。今は日帰りの可能な久住山で、記事の行程でも2日間でOk。
現在、スガモリ越小屋はなくなり写真のような姿になっています。