劇スの劇中テキストを起こしてみた ~スタァライト台本編~
※この記事は、『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』(以降、劇ス)をご覧になった方向けです。
何回かに分けて、劇ス中に登場するテキストを書き起こしたものと、それを読んでの感想をつらつらと並べていきたいと思います。初回は『第101回聖翔祭 スタァライト』公演の台本。劇中で雨宮さんが必死に書き綴っていたアレです。
中庭に落ちていた原稿用紙
まずは、ななの進路相談シーンから。ななが中庭で原稿用紙を拾い、眞井さんに渡しています。ここで落ちていた原稿用紙は三枚です。一つずつ見ていきましょう。
まずはおなじみのフレーズに書き加えられた注釈に触れていきましょう。このシーンの原稿用紙には、ところどころ赤ペンで注釈が加えられています。原稿用紙のマス目を埋めている字とは違う字で書かれているので、雨宮さんの隣で、演出の眞井さんが書き上がった原稿にチェックを加えていると考えるのが自然でしょう。
「第100回と同じでいいのか? テーマとしてもう一歩先に!」
まさに劇スという作品そのものを表しているというか、劇ス制作陣が眞井さんの字を借りて綴っているような、そんなコメントだと思いました。眞井さん、今回は作品の外と中を繋ぐ役割というか、制作スタッフのイタコ、というとちょっと語弊があるかもしれませんが、制作スタッフの作品に対する覚悟だとか「進化するぞ、先に進むぞ」という決意みたいなものを一番背負っているキャラクターだという気がします。このペースでコメント加えてたら一生終わらなくない? 次行きます。
そう本題は、フローラの一人台詞ですよね。この台詞さ~~~~~。画面に一秒くらいしか映らない原稿用紙にこんな台詞が書いてあると思わないじゃん。第101回聖翔祭スタァライトのフローラさん、第100回と第99回のスタァライトを完全に覚えてるみたいな、そんな台詞ですよね。たぶん、繰り返してるんだよな、スタァライトもスタァライトの中でスタァライトを。何を言っているのか分からない? 分かります。この話は他の台本書き起こしを見ていただいてから説明した方が良い気がするので、いったん次に移ります。
情報量で殴るのやめて。この幼い日のフローラとクレールに華恋(5歳)とひかり(5歳)を重ねてしまったのは私だけじゃないはずです。ここで重要なのは、クレールは星のキレイさに目を奪われていたけど、フローラは最初から、星を追うクレールのキレイさに心を奪われていた、ということだと思います。
スタァライトは、星の光を目指して塔に登るフローラとクレールの物語です。クレールは最初から星の美しさを知っていて、星を目指し続けていました。一方でフローラは、クレールに星の美しさを教えてもらい、同時に星を目指すクレールの美しさにも惹かれ、そして一緒に星を目指します。
全く同じ構図が華恋とひかりにも当てはまります。舞台の上のスタァの眩しさに、「これが舞台だよ。舞台の上なら私は何にだってなれる」と華恋に得意げに説明するひかり。そして、そんなひかりに「舞台」を教えてもらい、「一緒にスタァになる」という夢を見つけた華恋。ひかりが、スタァライトを一緒に観て(おそらく)間もなく、華恋の元から去ってしまうところも含めて、完全にアテ書きしているというか、かれひかはフローラとクレールなんだな……という気持ちになりました。
次は三枚目です。
言いたいことがめちゃくちゃある。一つずつ言っていってもいいですか? いいよ!!!
『激昂』って書くのめんどくさくなって『ゲキ』って略しちゃう雨宮さんかわいいね!!! 湧き出てくる文章に筆が追いついてない感じがあって非常に趣深い。そして書き起こす身としても大変助かりました。ありがとう雨宮さん。
「スイ」に「粋」って注釈加える眞井さんもかわいいね!!!!! この二人はこうやって、乗りに乗って勢いよく台本を綴る雨宮さんを眞井さんが細やかにフォローして、そうやって二人三脚でB組を引っ張ってきたんだろうな、というそんな想像がこの「粋」の字だけで出来てしまうのヤバくない!?!! 良すぎる。溜息をつきながら書き起こしました。
「星見さんにアテすぎ?」……星見さんにアテすぎ……星見さんにアテすぎ…………。この9文字だけでご飯三杯くらい食べられます。すみません。星見純那のことが大好きなオタクがお届けしているため……。そうだよね、星見純那、第99回と第100回、どっちも激昂の女神やってたもんね。そりゃ雨宮さんもアテ書きしちゃうし眞井さんも「あれ?」って思っちゃうよな……。この丸二年で培われたA組とB組の関係性というか信頼感のようなものが透けて見える注釈、ありがとう。そして「小娘風情が……お前に私の! 何がわかるというのか!!」という台詞がアテ書きと思われてしまう星見純那さん。この台詞が似合うと思われている星見純那さん…………。
「砂時計忘れてた!!」かわいいね。砂時計、TVシリーズでちらっと映る台本などを見るに、まあまあ重要なアイテムな気がしますが……。
はい。それではね、フローラの台詞について考えていきましょう。第100回までと第101回とで、明らかに変わっているであろう点が二つあります。一つは、どうやらフローラが一人で女神たちと対峙しているらしい、という点。もう一つは、フローラが過去にも激昂の女神に出会っているっぽい、という点。
これらから、このフローラは、第100回までのスタァライトよりも後ろの時系列に生きていることが分かります。つまりロロロで示唆された「新章」のフローラです。しかも隣にクレールがいなくて、そして女神たちのところを巡っているようだ、と憶測できます。
それはそれとして、この激昂の女神VSフローラの会話、かなり『狩りのレヴュー』に近いと思いませんか? 「この程度の矢で、この程度の炎で、私達を燃やすことはできない」というフローラの台詞を読んだとき、私の脳内では「響かない、感じない、届かない。そんな言葉じゃ、あの舞台には届かない」と星見純那を組み伏せる大場ななの映像が流れました。そして大場ななは続けます。「君は美しかった、愚かで熱く、美しかった。(中略)眩しかった、純那ちゃんが!」。一方でフローラも、「知っているもの。あなたの抱く『激昂』……あなたの胸にともっている『情熱』の炎は、もっと熱く、純粋で、激しかったもの!」と激昂の女神に言い放っています。もうそれは狩りのレヴューなんよ。そして「お前に何が分かる!!!」と激昂がキレ散らかすわけですね。個人的には「殺して見せろよ!!! 大場ななァ!!!」は「ガタガタうっせーな、やれるもんならやってみろ!!!!!」を星見純那風に言い直したものだと思っているので、まあ、似たようなものかなと思います(そうか?)。そう、つまり、「星見さんにアテすぎ」、あながち間違っていないんだよな。もう外と中がわちゃわちゃだよ。とんでもねえ二層展開式だ〜〜〜。
大道具準備室の原稿用紙
最後まで書き終わらない雨宮さんと、その手を取って「先に進まなきゃ」と訴えかける眞井さんのシーンです。名シーンすぎる。これは余談ですが、この場面、おそらく劇スで一番静かなシーンだと感じています。どこかの席で気持ちよく眠っているらしき人の寝息はもちろん、隣の人がポップコーンを摘まむ音すら聞こえる。劇スの中で一番飲食できない時間です。野菜キリンが出てくるまで待ちましょう。
話がそれました。このシーンでは、二枚の原稿用紙が判読できます。
ここは比較的情報量が少なめです。少なめではありますが、それでも『競演のレヴュー』の波動を感じてしまう。どうして。たぶん競演のレヴューでまひるがひかりの背中を押した姿と、フローラが嫉妬の女神に語り掛けている姿が重なっているんだと思います。嫉妬に囚われていたまひるが、嫉妬の女神の背中を押すポジションに立っていることに胸が熱くなります。まひるちゃん……。
この原稿用紙は他の原稿用紙に比べると画面に映っている時間が長かったので、劇場で解読できた方も多いのではないでしょうか。この女神たちが次々にセリフを言う場面は、次のシーンで映る製本された台本と劇スパンフに載っている台本にも載っています。比べた方が楽しいと思うので、並べてみましょう。
中庭で純那がめくる第一稿
ちなみに、何か所か「クレール」が「フレール」になっていますが、これは製本した眞井さんのミスだと思われます。かわいいね。
まずは、大道具室シーンの手書き台本と、みんなに配られた第一稿を比べた感想を述べさせてください。
中庭で99期生たちが次々にセリフを読んでいったので、皆さんの記憶にも良く残っている場面だと思います。概ね大道具室の手書き台本通りに打ち込まれていますが、何点か違うところがあります。
例えば、「たどり着いたよ、クレール。(サヨナラの意味で)あなたの元へ」のカッコ内がカットされていたり、クレールの「今こそ、塔を降りるとき」の頭に「フローラ、」という呼びかけが加わっていたり。
そもそもこのシーン、よく考えなくても眞井さんが雨宮さんの手を握ってから第一稿を製本するまでのスピードがあまりにも早すぎます。台本にも多少の違いが出てきているということは、雨宮さんの手書き脚本に、ななの進路相談シーンのように眞井さんが注釈を加えた上で、製本したと考えるのが自然でしょう。ということは、実際には大道具室のシーンと決起集会シーンの間には時系列的なズレがあったということです。劇スの話なのに時系列を考察するのマジで野暮で申し訳ないんですが、「脚本でも微修正加わってたんだ!」というのは個人的に「へえ」と思ったポイントだったので、一応文章にしました。実際には時系列がズレてるのに、同じシーンみたいに扱う演出(そう、劇スは舞台なので「演出」なんですよね)、他のシーンでもちらほら見られましたね。たぶん次回か次々回にもこの話をします。
さて、その手書き台本の前の部分は、しっかり読んだ方は少ないのではないでしょうか。純那ちゃんが台本のページをめくる直前に一瞬映るカットから書き起こしました。
言いたいことは山ほどあると思いますが、とりあえずパンフの台本も並べて書き出してしまいます。前半は同じなので、「だが……塔を降りる……」から。
この一連の台本を読んで、私が一番感じたのは「やっぱり劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライトって第101回聖翔祭スタァライト公演だったんだな!!!」ということでした。
TVシリーズの序盤では「スタァライト。それは星の光に導かれる女神たちの物語」と表されていた「戯曲スタァライト」は、華恋が終わりの続きを始めたことで、12話ラストでは「スタァライト。これは、運命で結ばれた9人の舞台少女たちが紡ぐ、新しい永遠の物語」に変化しています。そして、それを強化するかのように、再生産総集編(ロロロ)では第100回聖翔祭スタァライトの話の展開をなぞって、TVシリーズの物語が再編成されました。そんなロロロの最後では、キリンが「新章の続きが始まる」と言ってます。そしてそれが、今回の劇スで展開される物語でした。
つまり、台本をわざわざ書き起こさなくても、劇スが「戯曲スタァライト(新章)」であることは明白です。さらに、雨宮さんが追加した新しい最終章では女神たちが塔を降りる決意を述べており、劇ス全体のテーマともしっかりとつながっています。劇スは第101回聖翔祭スタァライト、それはマジでそう。
それはそうなんですが、台本を書き起こすことで「うわ、思ったよりも戯曲スタァライト、劇場版スタァライトじゃん」と思ってしまいました。決起集会時の第一稿と、劇スパンフに載っている最終稿では、少し台詞が変わっています。並べてみましょう。
第一稿の女神たちも、最終稿の女神たちも、塔から降りることに対しておそれを抱いている点では共通しています。しかし第一稿の女神たちは漠然と「外の世界」に対しておそれを抱いているのに対し、最終稿では「自分の内面の課題を克服できるか」という点を怖がっているように思えます。つまり、第一稿と最終稿の間で、女神たちが成長を遂げている、と考えることもできなくなくもない、と思いませんか? そして、劇スで私たち観客が見守ってきた舞台少女たちも、決起集会とエンドロールの間に、各々ケリを付けて「一人の舞台少女」として成長しています。
もう一か所、第一稿にだけ残されている導き手の台詞にも注目してみましょう。劇スパンフのななのページにある「塔の導き手が残した言葉」も並べてみます。
第一稿では「真実にたどり着いた」のはフローラとクレールの二人だけで、女神たちと導き手は「塔を降りるという選択があったとは……!」と驚いています。一方で、最終稿では「私たちみんなで真実にたどり着いた」という言葉を導き手は残しています。
つまり、これは半分くらい妄想なんですが、第一稿の女神たちと最終稿の女神たちは、決起集会の舞台少女たちとエンドロールの舞台少女たちが別人だったのと同じくらいに、別人なのではないかと思います。第99回聖翔祭スタァライトでは、舞台少女たちが「女神役」を演じていました。しかし、第101回聖翔祭スタァライトでは、演じなくとも舞台少女たちは「女神」そのものなんだと思います。だって、「私たちはもう舞台の上」だから。頭がこんがらがってきましたか? 分かります。私も混乱しながら打っています。
ここで、書き起こした台本から、戯曲スタァライトの新章がどのような物語だったのか、ざっくりと想像してみましょう。まず、新章のフローラは「過去に塔に登り、目を焼かれて落ちたこと」を記憶しています。そして、女神たちのもとを順番に訪れ、様々な負の感情に囚われている彼女たちと戦い、あるいは励ましていきます。最後に塔の上にいたクレールの元にたどり着き、手に入れた星の光を空に落とし、崩れ落ちた塔を後にして、次の星を探しに行きます。
劇場版の華恋も、最後に塔の上でひかりというクレールの元にたどり着いた、という点では同じです。そこまでの道程で、華恋は自分が舞台少女になった軌跡をたどっています。これは、女神たちのもとを順番に訪れている部分に対応するのではないかと思います。なぜなら、「激昂の女神」「嫉妬の女神」などスタァライトに登場する6人の女神たちは、6人のキャラクターとして描かれてはいますが、誰の心にも等しく居る存在だからです。誰しもが「絶望の女神」であり「逃避の女神」なのだと思います。華恋も過去の自分を振り返る中で、自分の中の女神たちと再会していったのではないかなぁと思います。
そしてまた、自分の人生を歩んでいる限り、誰しもが主人公、つまり「フローラ」です。だからこそ、劇スでは、各レヴューで舞台少女たちが時に女神を、時にフローラを、そして時にクレールを演じていました。そして最後には全員が、自分こそが「フローラ」であると理解します。
TVシリーズの「スタァライト」は、明白に「華恋とひかりの物語」でした。しかし、劇場版スタァライトは、「華恋の物語」であると同時に、「9人の舞台少女全員が主役の物語」でもあります。だから、塔の導き手は「私たちみんなで真実にたどりついた」という言葉を残したのではないでしょうか。
『少女☆歌劇レヴュースタァライト』というコンテンツのために生まれた「戯曲スタァライト」。他の一般的な作品でも劇中劇はたびたび登場しますが、あくまで小道具として扱われる例が多い気がします。しかし「戯曲スタァライト」は「レヴュー」が進むにつれて変化し、新たな最終章では「レヴュースタァライト」の登場人物と一緒に成長していきました。つまりその、生きてるんですよね。戯曲が。ここで「舞台は生き物」という言葉が効いてくるわけなんですが。
舞台を描く、でもあくまで舞台ではないアニメでここまで「舞台は生き物」をやってのけるの、マジですげえな…………という気持ちでいっぱいになりました。すごい長くなっちゃったな…………最後まで読んでくださってありがとうございます。