展覧会にいく。|150年-まだ温かさの残る死体に触れる。
こんにちは、sabor(サボロー)です。仕事を辞めて自由な時間を手に入れた無職が、やりたいことをやっていく様子を記録するnoteです。今回はやりたいことリストの「展覧会に訪れる」の記録をお届けします。
150年
他人の暮らしの蹂躙、土足で踏み入る肉の感覚のたたみ、残る生活臭、壊された建物、そして時間の流れ。今年最も記憶に残る展示のひとつになったといっても過言ではありません。
東池袋にある、取り壊される予定の6棟の建築物を貫いた展示「150年」。布施倫太郎氏のプロローグでは「150年はこの肉体を拠点にする限り思考しきれない時間量」と語られます。
大地の芸術祭の廃校などを利用した展示が「記憶の棺桶」のようなものだとしたら、取り壊される予定の住宅を利用した今回の展示は「まだ生温かさの残る死体」に触れているようでした。 展示内のいたる所に居住者の残置物が生々しく残り、生活の温度が冷めきらない。
他人の暮らしてきた痕に土足で踏み入る背徳感のようなものと、それと均衡する好奇心のなかで、作品として鑑賞してしまう衝撃的な体験。個人の感想と記憶をここに少しだけ残します。
時間に踏み入る
saborは、まだ入場規制がかかる前の晴れた平日の午後に「150年」を訪れました。人は並んでおらず、承諾書に署名をして説明を受け会場内に入ります。
1棟目の建物には、打ち抜かれた壁から入場します。この時点で、日常から異様な空間に迷い込んでしまった不安と期待感に包まれます。
触れられない存在はそこに在るのか
印象的な作品が揃う今回の展示のなかでも、特に記憶に残った作品について忘備録を書きます。「触れられない存在はそこに在るのか」という観点から気になった作品です。
《あなたにではない、何かに向けて》 加藤広太
不安定な足場を登り、一棟目の屋上に行くと出会うのが、加藤広太氏の作品《あなたにではない、何かに向けて》。屋上に設置された鏡のような四角い板は、ディスプレイで首都高を走る自動車の車内から展示会場のビルを映した映像とのこと。しかしながら、その映像は本展の鑑賞者からは見ることができません。
ノイズに混じりの声でラジオから流れているのは、作品のステートメント。耳を傾けても、ギリギリ聞き取れるかどうかといった音声です。直接的に全貌が見えないもの、聞こえないものに対して、鑑賞者は「邂逅した」と言い切れるのかどうかを考えさせられました。
《Screening Fire: The Past Is Alight》 高見澤峻介
高見澤峻介氏の作品《Screening Fire: The Past Is Alight》は、二棟目の2階の和室に設置されています。カメラで捉えた光景をプログラムによってリアルタイムで再認識し表示するための装置を用いて、消えた蝋燭にまだ炎があると認識するように設定しているそう。
装置の計算による排熱により、会場内の他の部屋よりも温かいこの部屋。カメラの範囲に手をかざすと、それに対してもプログラムの再認識が行われる。
指や白く細長い物体をカメラに映すと、それらにも炎がつくことがあったのですが、同行者が「炎がついた指が、本当に熱いと感じた」と言っていたのが印象的でした。
《ゆめゆめいぬいぬ》 小野まりえ
奥の棟でたどり着いたのが、小野まりえ氏の作品《ゆめゆめいぬいぬ》。冷たく青灰色に塗られた部屋。他の作品が直接的な生活の痕を残してそれに触れる生々しい異質さだとすれば、この作品は、誰かの記憶や夢の痕跡の中に迷い込んでしまったような美しい異質さを感じられました。
犬や過去の鑑賞者の足跡が砂に残り、消えていく。もう既にここにはいない存在、誰の夢なのかすら鑑賞者には分からないのでしょうか。夢と現実の間にいるような作品でした。
生活の痕跡と作品の混在
残留物と作品が入り混じる空間は、かつてそこに生活があったことを確かに感じ取れます。どこからが作品で、どこからがこの場所にあったものなのか、慣れるまで判別がつきません。
他者の蹂躙
「他所の家」というのは、基本的に「玄関から入り、玄関から出るもの」のはず。今回の展示では住宅の間に足場が組まれ、何もなかったはずの壁や2階などの、通常の生活ではあり得ないはずのアプローチで他人の家に入って行くことによりその常識を崩されます。
副島しのぶ氏の作品紹介に「自分の重みで古びた畳が沈んでいくのは、まるで肉の上を歩いているかのような感覚だった」とあるのですが、まさにその通りで、土足で踏み入る際の畳が沈み込む感覚には罪悪感が生じます。
鑑賞すること自体が他者を蹂躙しているような感覚に陥りますが、罪悪感がありつつも好奇心を止められない、理性がぼやけていくような感覚が忘れられません。
宇宙の距離、異なる惑星で
短い会期の展覧会、訪れた鑑賞者たちの記憶には刻まれたはず。そして、今回の展覧会はインターネット上でも話題になり訪れなかった数多くの方々(もしかしたら実際に訪れた鑑賞者よりも多い数になるかもしれない)とも接点が生じて記憶にも残っているはず。
「一人の人間だけでは見ることができない時間としての150年」はどこまで届き、残るのでしょうか。
今回の展覧会を鑑賞できたことを、心より嬉しく思います。
知覚できる150年のなか、引き続きやりたいことをやっていきますので、よろしくお願いします!