冬はつらいから、フォルムチェンジしたいよね。【愚痴ですまんけど】
毎度冬を過ごすたびに「しんどくね!?」って思うんだ。思ったついでに色々考えてたら、自分なりの課題が見えてきた。今回はそんなお気持ちを「紐解いてみたよ~」という話をしようと思う。
今はニートだけれど、会社に勤めていた頃「冬が辛いなぁ」と感じた時を思い出しながら書いたから労働に関する発言もある。悪しからず。
自問自答
1.冬の何がしんどい?
まずはこれ。しんどい要素を明確にしないと話が進まない。とりあえず頭ひねって出てきたものを、下に並べておく。
上の羅列を見て、同じ境遇に陥ったことのある人はどれくらいいるだろうか。
冬はそもそも活動に対するデバフがすごい。
それと気分の振れ幅が激しい。
なにかゲームや漫画にハマると寝食を忘れて没頭してしまう。
そうでなくとも夜は頭が冴えてしまって眠れない。
ゆえに、夏場と同じテンションや生活スタイルをしようとしても、途中で詰んでしまう。
2.冬はどんな気持ちになることが多い?
自分固有の価値観に由来する捉え方中心で書いているので、わかるマンは少ないかもしれない。
参考程度に、普段考えていることや生活の過ごし方を示しておくと、
で、こんな人間は労働と相性がいいかといえば、正直悪いと思う。特にラストの影響がエグい。
これまでしてきた労働は単調さはなかったものの、作業内容に好奇心を見いだせないものが多かったし、表面的な間柄でしかない社員とやりとりすることでは内的な欲求は満たされなかった。一言でいえば、退屈だった。
退屈は「充実への渇望」を生み出し、労働から解放された時間に「飢えをしのがなければ」という感情を募らせ、夜更かしを助長させていった。
しかし夜更かしをしたところで自分の不満を満たしてくれるものが見つかるわけでもないし、「満たしてくれるもの」が明確だったわけでもなかった。
また、睡眠をリズミカルにこなせない性質が響いて「定時が決まっていて、画一的に同じパフォーマンスを出し続けること」を前提にした仕組みとミスマッチを起こしていた。
作業に退屈さを感じ、それを自前で解決できなくなった時。夜に寝付けず、昼寝を挟んでも睡魔に支配されてしまう状態が数ヶ月も続いた時。
「そこで働き続ける」という選択は、現実味を薄めていくだろう。ましてや、パフォーマンスに向いていない冬に、それらの面倒を見つつ成果を出すことが求められていたわけだ。そりゃあ無理がある。
実際限界を迎えて、今はニートになった。
3.じゃあ、これからどうすんべ?
上4つをやって行こうと思う。
1.2.で言ったように、さぼっちは冬に頑張ることに向いていない。「パフォーマンスを出しやすい春から夏に出来るだけ稼いで、秋と冬は冬眠するもの」と割り切って生きた方が、まだ現実的に思える。
それと、寝つきの悪さからくる不安定な生活リズムのせいで、画一的なパフォーマンスを前提に回る労働形態とも相性が悪い。
季節によって労働の負荷に融通のきかせてもらえる労働環境とのマッチングを、考えた方がいいと思う。今は精神科に睡眠薬を処方してもらってはいるが、あれは対処療法的なアプローチでしかないと思っている。根本的な生活スタイルを個人最適化した方が、同じ問題で悩み続けずに済むかもしれない。
未経験ゆえ憶測になるのだけど、フリーターとしての仕事を受けてみたいと思っている。
クラウドワークスやランサーズなどで仕事を受け、自分の耐えうる負荷と仕事の相場観を知ることで安心感を高められると思う。
そんなに都合良くいかないだろうけど。
本音を言えば、生活費を楽に手に入れられるのであれば労働はしたくはない。けれど、今の自分は「会社に雇われて働く」しか生活費を得る手段を知らない。
世の中には「生活に必要なものをそのままもらいつつ、住み込みで働く」とか、「空き家に居候しつつ、誰かと協力してお金や食べ物をもらう」などの手段をとっている人がいると聞くが、到底自分でそれらを再現できる自信がない。
なのでニートとして空いた時間があるうちに、心身への負荷が少なく済む生活の仕方を確立したい。そのほうが市民税とか保険料とか払いやすいだろうしね(そういや自治体や国の支援についても大切だと思ったけど、これについては別の機会に話したいと思う)。
そういった未経験の情報を集める上で、「複数の群れ(コミュニティ、サークル、部活動など)に所属しておく」選択は大切だと思う。そういった情報に触れられるのは、たいてい他人との接触をきっかけにしていたから。信憑性はまちまちではあるが、「別のライフスタイルがある」という存在を知りさえすれば、自力で調べて確度を高めることができる。
そのきっかけを早めに作りたいのだ。群れに所属するにあたって必要な手続きやしきたり、ふるまい方はもちろんあるだろうが、それらも自分にとっての負荷を考えながら、馴染んでいけるようになればと思う。こう言う話はケースバイケースで進捗に時間のかかる話なので、曖昧にしか言えない。
最後に、「自分と他人は別の仕組みで動く存在だ」という認識を持っておくのも大切さを話したい。
ここまで自分にとって無理な状況を振り返って、それらを前提に現実的な生き方を模索しようとした。けれど、社会には自分の「無理」をハードルとすら思わず軽々と乗り越えられる人もいるし(会社にはそういう人が多かった)、中にはそのハードルに躓いていることを「堕落している」「甘え」と揶揄する人もいることだろう(そういう論調、過去にあったよね)。
その根っこにあるのは、「あの人は何ともないのに比べて自分は・・・」という「比較」ではなかろうか。確かに「比較」には競争心を抱き、負けじと頑張ることで自分の成長を促す効果はある。
しかし、「自分には無理なこと」を基準に比較をしてしまうと、自己否定を誘発してメンタルを病んでしまうリスクもある。
「比較」の信仰が辛いのであれば、鞍替えすればいい。「比較」しか信仰を知らないのであれば、「適材適所」「無理なものは無理」の信仰を持てばいい。ヒトカゲは水場にいたら死んでしまうし、ガブリアスは雪山では生きづらい。
できるだけあがいた最後に傷病手当をもらって仕事を辞めた身からすると、「会社に身を置いて労働をし続けられること」もまた、適性の有無に過ぎないんじゃないかと思う。
それに、揶揄してくる人は別に自分の援助をしてくれるわけでもないのであれば、耳を貸すだけコスパが悪い。Twitterでそんな論調を目にするくらいなら、さっさとスマホを放り投げて気になる本を読むなりレジェンズアルセウスを遊べばいい。
それぐらい、自分にとって都合の良い解釈をしてもいいんじゃないかと思う。
おわりに
「冬しんどいよぴえん🥺」から話が膨らんだ。
結局のところ「しんどい冬に合わせて調節した生活スタイルを併用して、状況に合わせた使い分けができると良いよね」というお気持ちを書き散らした。
画一的な労働しか経験してこなかったゆえ、本当にそういう生活スタイルが運用できるのかは不透明だし、「そんなことはなかったよ・・・」て絶望する未来が来るかもしれない。けれどまあ、意思表示は大事じゃろ。あれば周りに気づいてもらって、何かきっかけが作れるかもしれないしね。やっていきだ。
やや脱線気味なところもあったかもしれないけれど、お気持ちを吐き出せて少しだけすっきりした。気が向いたら、また適当なタイミングで書けたらと思う。
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